都市環境を進化のための土壌として捉えること、または都市もまた自然の一部であると考えること。それはつまり、人間と自然の二分法を改定することだ。人間が作り出した「人工的」な空間に生物が生息する以上、それもまた生物にとっては「自然環境」であり、そこでは、進化が稼働することになる。
都市にも生物多様性があり、独自の生態系がある。純粋な自然が失われたことは、もしかすると、嘆くべきことなのかもしれないが、それと同時に、都市という現実は近代以降の世界においてもはや否定できない事実であり、都市空間は拡大する一方である以上、人間存在(の作り出した環境)が生物の進化に影響を与える可能性を無視することは、自然を純粋な実験室であってほしいと願うようなものだろう。
それは、ひるがえって、人間の作り出す人工物を自然の一部として捉えることでもある。つまりここで人間はもはや自然を汚染する害悪という扱いを受けない。人間の「生態系工学技術」は他の生物より過激で破壊的かもしれないが、だからといって、人間だけのものでもない。
とはいえ、そのように人間の「環境破壊」を「生態系光学技術」と言い換えることで、人間が免罪されるわけではないだろう。とはいえ、都市という自然――たとえ「汚染」された自然であるとしても――に生物が適応できるとしたら、それは生物がそもそもそのような素因を可能性として持ち合わせていたことではあるし、そのような要素もまた進化の産物ではあるのだから、都市で栄える生物たちの究極的な創造主は自然ということになる(人間はあくまで副次的な条件にすぎない)というのは正しい。
しかし、都市という特殊環境で進化していった遺伝子が自然一般のほうに還流されるようになると、特殊が一般に影響(悪影響)を与える事態につながっていく。自然が交流するものであり、混淆するものである以上、そのような相互影響は避けられないとはいえ、そのような交換を加速させる人間の役割をいまあるままに任せて放置することは、倫理的な問題をはらんでいると言わざるをえないだろう。
人間の作り出したものが、進化を誘発し、加速させるようになる。Human-Induced Rapid Evolutionary Change(人間が誘発する急速な進化的変化)を完全に肯定的に受け入れてよいものか、著者自身、「おわりに」のなかで自問している。その不思議さにわたしたちの目を開くように促すこと、それは、ダーウィンが『種の起源』の最後の頁で述べたように、豊穣なる自然に驚きと畏怖の両方を感じるような態度を促すことでもあると思う。
本書がとりあげる具体例はどれもひじょうに興味深いが、図版がないせいで、いまひとつイメージしづらい。翻訳は悪くはないが、テクストの手ざわりが硬く、やや古臭い。漢語よりの訳語を多く選んでいるせいでもあるし、言葉遣いがやや大仰だからでもある。この点は好き嫌いが別れるところかもしれない。