「われわれのフーリエ」:フェリックス・ガタリ、杉村昌昭訳・編『<横断性>から<カオスモーズ>へ――フェリックス・ガタリの思想圏』(大村書店、2001)

私は理論的資料や哲学的資料のなかから役にたちそうなものをつまみ食いする泥棒なのです。しかし、あまり情報に通じていない泥棒です。泥棒はよく壁にかかっている大家の絵の横を通りすぎて、自分の気に入った小物を盗んだりするのですよ。私の場合もそれと似ていますね。私は哲学的大家の作品の横を通りすぎて、私の理論を構築するのに有用と思われるようなものだけを拾い集めるわけです。(71頁)

 

「フェリックスはわれわれのフーリエである」(ルネ・シェレール

ガタリの思想はユートピア的なものであふれかえっている。ガタリが不可能な夢物語を語っているからではない。不可能なはずがない別の可能性について、すでに可能性として辺り一面にただよっていながら依然として潜在的なものにとどまっているオルタナティヴについて、そしてなにより、そうしたオルタナティヴを現実のなかに引き入れていくための道筋について、ガタリが、希望に充ちた力強い言葉を語ることができるからだ。 

ガタリはすでに来るべき未来を見据えていた。そしてそのために何が必要となるのかを考え続けていた。90年代の時点でガタリは地球環境がわたしたちの生にとって決定的な重要性を持つことを見抜いていたし、エコロジーの問題は人間と自然の関係に限ったことではなく、さまざまな領域――環境、社会、精神――を横断する問題系であることを見抜いていた。だからこそ彼はエコロジーではなく、エコロジーとフィロソフィーの合成語であるエコゾフィーについて語ろうとしたのだ。 

遺稿となった語り下ろしテクスト「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」が端的に示しているように、エコゾフィーを実践することは、既存の空間や構造――物質的なものも精神的なものも、自然的なものも社会的なものも――のなかで新しい関係を切り結んでいくことはでなく、既存の空間や構造そのものを組み替えていくことを意味する。

来るべきエコロジー的意識は、空気の汚染、地球温暖化による悪影響、多数の生物種の消滅といったような環境ファクターに取り組むことだけ満足してはなるまい。社会的領域や精神的領域におけるエコロジー的荒廃にも関心をむけなければならないだろう。集団的なメンタリティーや習慣を変えなければ、物質的環境にかかわる<回復>の措置しかとれないだろう……エコゾフィーの建設的な諸価値の周囲に結晶する新しい進歩的な機軸は、精神的貧困や感覚の麻痺――これが資本主義の城塞のなかで根こそぎにされ、見捨てられた人々の主観性にしだいに浸透している――を修復することを最優先の課題とみなさねばならない。(119-20頁) 

来るべきエコロジーのためには、わたしたち自身が変わらなければならない。だからこそ、ガタリは倦むことなく主観性=主体性subjectivitéの別のつくり方について語り続ける。ガタリは『エコゾフィー』のなかで「新しい優しさ」を作り出すことについて言及しているが、重要なのは、わたしたちがまったく別の存在になることではなく、既存の資本主義的体制によって蓄積されてきた感覚や思考のつくり方を学び忘れ、わたしたちの潜在的可能性を別の目的のために使っていくことである。わたしたちはすでに本源的には豊かであるはずなのだから、問題は、いかにしてその本源的な豊かさを取り戻すかである。

 

複数の領域を横断するものとしての主観性

主観性という哲学的に王道な問題を自己の思考の中心に据えるというのは、精神分析家にしてアクティヴィストでもあったノマドな人物の試みとしては、少々不思議な感じがするかもしれないが、ガタリの言う主観性はかなり独特だ。

第一に、主観性は複数的なものから出来ており、主観性を形作るものは、個人的なものには限定されないし、意識的なものに限定されるわけでもない。そこには社会的なもの、無意識的なもの――ガタリ独特の用語に従うならば、さまざまな機械――が絡んでくるし、何よりも重要なことに、無意識の形成もまた社会的で集団的なものである。「わたし」の主観性はわたしに帰属するものかもしれないが、わたしの主観性の形成はわたしひとりに還元できるものではないし、何かひとつのプロセスやモデルに還元することもできない。 

こう考えていくと、なぜガタリフロイトラカンにたいして批判的なのかが見えてくる。フロイトでは家族モデル――パパママ・モデル――という単一の型が特権的なパラダイムになってしまうし、ラカンでは言語的に構造化された無意識モデルがすべての個人の無意識の雛型になってしまう。ライヒの政治的な勇気を大いに称賛しながら、ガタリライヒにたいして依然として批判的なのは、よく言われるようにライヒが性的なものリビドー的なものを重視しすぎたからではなく、ライヒにおいては欲望の問題が個人的なものにとどまってしまっているからである。ガタリにしてみれば、無意識も欲望も、集合的に作られるものである。

「主観性の集合的生産」こそが、ガタリの思想の通奏低音をなしている。主観性が集合的に生産される「べき」だとガタリが言おうとしている部分はもちろんあるはずだが、主観性はつねにすでに集合的に生産されて「いる」というのが、ガタリの議論の肝である。この存在論的な事実=真実を出発点にしようというのだ。 

第二に、もし主観性が、意識的なものも無意識的なものも含めて、集合的なもの――さまざまな機械――のアセンブラージュであるとしても、どこから寄り集めてくるかの素材元が、あらかじめ決まっているわけではない。ある意味で、わたしたちはコンテクストの産物であるけれども、そうした複数のコンテクスト自体、わたしたちが作り出すものでもある。コンテクストはつねにすでに「そこにある」のではなく、わたしたちの主観性が作り上げられていくなかで、同時に分節されていくものでもある。このコンテクストの創造性があるからこそ、主観性もまた創造性をはらむのである。。 

ガタリラカン派の精神分析に批判的なのは、そこでは、無意識的主体の形成プロセス=コンテクストが単一であり、かつ、すでに確定しているから、要するに、創造的余地の入りこむ隙間が理論的に削除されているからだろう。ガタリにとって「逃走」が大きな意味を持つのは、創造性のためには、そうしたがんじがらめの単数的プロセスから脱出し、複数的なものを呼びこまなければならないからだ。「あらかじめ決定された主体――つまりマスメディアや集合的施設によって社会のなかに<もたらされている>主体――からの脱出」(11頁)が必要である。 

第三に、既存のもの=機械を組み合わせて作り出される複合的なもの=アセンブラージュである主観性は、既存の構成要素から出来ているにもかかわらず、それ自体は特異singulierなものである。というのも、アセンブラージュのプロセスは、わたしたちの存在の絶対的な特異性ゆえに、絶対的に特異なものだからだ。わたしとあらゆる点において同一の個体はこの世に存在しない以上、どれほど似かよっていようと、細部のすみずみに至るまで完全に一致する同一の体験をわたしたちが持つことはありえないだろう。 

もちろん、そのプロセスには規範性が存在する。集団や社会、制度や国家が強要する「あるべきプロセス」はもちろんあるが、わたしたちの主観性はまさにそうした規範的なものとのせめぎあいのなかで作り出されていくのであり、だからこそ、そこには、創造性の介在する余地が構造的に仕込まれているのだ。もしフーコーが主観性の形成における規律性の側面を強調したとしたら、ガタリは同じプロセスにおける創造性の側面を強調する。主観性の形成は特異なものであり、規範的なものとの緊張関係にあるが、特異なものと規範的なものとがせめぎ合うからこそ、創造的なものが生まれてくる余地がすでに潜在しているのだ。たとえ規範的なものが、特異なものや創造的なものを飼い馴したり抹殺したりするとしても、創造性のための余白がすでにある/あったことまでは消去できない。ガタリはそこに賭けるのである。

 

ガタリエクリチュールのムーブメント

ガタリがツリー・モデルを批判し、リゾーム・モデルを利用するのは、ツリーにおいては規範的なものが再強化されるばかりで、外や他に開かれることがなく、単一的なものに帰着してしまうからである。だからこそ、ガタリは、逃走し、逸脱し、多/他なるもののほうに開かれているのがデフォルトであるリゾーム・モデルを採るのではあるけれど、ガタリの文章の運びはきわめてレトリカルで、シンメトリー的なところがある。

文章のロジックが、二項対立的な図式を呼びこみ、それによって、転落は上昇に転化し、悲観性は楽観性にシフトするかのようだ。もちろん、ガタリの理論自体のなかに、反転や転化のモメントがあるのは疑いないのだけれど、同時に、ガタリエクリチュールがそうしたモメントをブーストしている部分は大いにあるのではないか。

人間は個人も集合体も、いまや破滅に向かっての走行に巻き込まれ、実在の領土に根づくいっさいの能力を失おうとしているのですが、こうした前方への逃走の動きのなかで、自分自身であることの回復の過程も生じるのであり、あるひとつのアイデンティティに収斂されない何かを見いだすこともできるのです。それは何か一般的なものへの適応ではなくて、そういった動きの途上で、墜落のなかですら、みずからを取り戻し、ある可能な時間性を構築し、対象を定め、自分の世界をつくりだすことができるということです。それはまさに芸術家がみずからに固有の世界を創造し、生産するのとまったく同じことです。(20-21頁) 

作用は反作用を生む。抵抗がある。それは意志的な行為というよりは、物理的な真理のようなオーラを帯びているかのようだ。

人類はものすごい勢いで進化しています。多分このままいくと地上のすべての生命が一掃されるほどの勢いです。いまのような生産の仕方、汚染、主観性の解体といったものが原因でわれわれが陥っている危険の実相が明瞭になってくるにつれて、おそらく突然、びっくりするような唐突な仕方で、平静に戻る時期が訪れるのではないかと思われます。車や都市、あるいは財の使い方についても、これまでとはちがった仕方が登場するのではないでしょうか。そうすると、生きる目的もちがってくるでしょう。つまり、人々が対話や生活や身体との関係といったものをどう組織し直すかということを考えるようになるでしょう。要するに、いま現在、経済市場を機能させているものを生産し続けるのではなくて、もっとちがった人間の潜在能力を発展させる可能性をいかに組織するかということが重要なのです。(38頁)

「平成に戻る時期が訪れるのではないかと思われます」と述べるガタリは、具体的なデータにもとづく未来予想をしているというよりは、個人的な希望を告白しているようにも見える。極限的なところまで行く揺り戻しが起こるだろう、という仮説は、的外れなものではないし、事実、これまでの歴史をそのような往還運動と捉えることもできるだろう。しかし、過去がそうであったから未来もそうなるとはかぎらない。それどころか、ガタリユートピア性とは、これまでなされてきたのとは別のやり方をこれからやっていくことができると信じること、信じるばかりかそれを実践していくことにあったのではなかったか。だとすれば、ここで未来における反転のシナリオを、歴史の道筋の自動的なパターンであるかのように思い描くガタリは、エクリチュールのムーブメントに引きずられているのではないかと言いたくなる。

 

倫理的-創造的

ガタリの思想/実践とテクストのあいだには、微妙な亀裂が走っているのかもしれない。テクストはいわばシンメトリー的な、自動運動的に稼働している。ガタリが特異な用語法を駆使すればするほど、あたかも用語がガタリの思想をハイジャックし、テクストが自動生成されるかのような趣がある。ガタリの用語はいわば速記法的なものだと思うのだが、あまりに使い勝手がいいので、ツールのほうが使用者の思惑を越えて機能しすぎているのではないかという気がするのだ。

だがガタリが賭けるのは、つねに、レディーメードなものでは対処しきれない特異な瞬間であり、そこで立ち現れてくる倫理的なものである。というのも、もし既存のマニュアルでは対処不可能な出来事に遭遇することになれば、わたしたちはその状況のユニークさを受け入れ、そのユニークな状況にたいして自ら立ち向かうほかないからである。自らの行為を引き受け、新たなものを作り出すしかないからである。それは、ガタリの言い方を借りるなら、倫理が始まるのは、「科学主義的パラダイムと絶縁して、別の領域に入っていくとき」である。

私が倫理をもちだすときというのは、たとえば私が働いているラボルド精神病院において治療や仕事のなかで何か特異なことが生じたときです。それは再生産されることのないような何かであって、つまりある種の関係の持つ真理、唯一性、特異性といったものが生まれて、それが実在の特異性とでもいったものからなる環境をつくりだしていくのです。そして、この真理の刻印をおびたものが、疑似科学的世界、テクノロジー万能の世界、白衣の世界、単線的因果律に支配された世界といったもののなかから人々を救抜することになるのです。倫理的ファクターが発動するのはここからなのです。それはまた審美的ファクターでもあります。というのは、美的創造のなかには、これと同様の特異性に対する関心がつねにあるからです。(15-16頁) 

こうして、ガタリの思想のなかでは、倫理と美学が、特異性と創造性を介して、つながれることになる。芸術家であること、それはつまり、特異性の創造に関わることであるが、特異性の問題は倫理をも呼び込む。

芸術家が理想のモデルというわけではない。芸術家であれば何でもいいというわけではないし――たとえば彼が特権的なかたちで言及するのは、たとえばプルーストカフカのような「マイナー文学」の書き手たちである―――すべてのひとが芸術家にならなければいけないというわけではない。「芸術家のように」というワンクッションがある。

芸術家は、変化が困難な条件のなかでも変化することができる変異体だということです。たとえば、支配的なイメージや、マスメディアや、旧来のギャラリーのシステムといったものに芸術がコンロトールされている条件のなかでも、変化は生じるということです。音楽の世界も、高等音楽院が支配しているのではなくて、音楽消費の傾向性によって支配されているわけです。それはそれとして、芸術家というのは、みずからの存在を特異化の過程の上にのせようという勇気を持った人々であって、そうであるがゆえにわれわれにとって興味深いパラダイムを提供することができるのです。実際、私は、歴史のユートピア的地平において、芸術家がみずからの作品をつくるように人々がみずからの生を導くことができる可能性を夢見たりもします。あくまでも<芸術家のように>ということなのですがね。(48-49頁) 

わたしたちがみずからの生を、それがあたかも芸術家にとっての作品であるかのように、創造的に作り出していくこと、それは要するに、わたしたち自身の創造性を信じることでもある。どれほど既存の社会的規範や偏見のようなものにまみれていようと、それでも、そこから抜け出し、何か別の、何か新しい、何かもっと悦ばしいものを作り出す可能性はあるのだと信じることである。

  

横断する非超越的な主観性

ガタリは強固な主観を求めているのだろうか。強い確固たる自我を。

その傾向はあるかもしれない。すくなくともガタリ本人は、そのような主観性に憧れている部分があるのかもしれない。ガタリサルトルにたいする忠実さを、そのように理解することは、あながち誤読でもないだろう。

私はサルトルの思想に対してつねに忠実であったし、とても強く引かれてもきました。とりわけ、自分が間違ったり、逸脱したりすることをも恐れない、あのアンガジュマンへの意志、歴史への参加といった態度に対してですね。(27頁) 

しかしそれは、独我論的な、ひとりよがりの主観を求めることではないし、そうしたものを絶対化することでもない。

興味深いのは、ガタリが主観性の形成における複数的なプロセスを強調しつつも、主観性が単なる場当たり的な仮面の付け替えのようなものになってはならないと述べている点だ。行きあたりばったりに、カメレオン的に自分を変容させても、主観性の防衛システムとしては機能しない。主観性はそのうちに多様なものを含んでいなければならないが、多面的なものがただバラバラに散らばっているだけでは駄目なのだ。

しかし、必要なのは、それらを統合することではない。それはヘーゲル的な統合された主体を、すべてを自分のなかに飲み込み、あらゆる矛盾を解消して、高いところに昇りつめたちょうつ的な主体を、希求することにしかならないからだ。ガタリにとって大切なのは、超越ではなく、横断である。それは水平的に流れるものでもあれば、斜めに貫くものでもあるだろう。しかし、決して垂直的に串刺しにするようなことにはならないだろう。さらに言えば、横断においては、上下関係といった序列性は解体され、後景に退くはずである。

ガタリのスキゾ性や分裂性の擁護は、この文脈において理解されなければならない。分裂していることが重要というよりは、複数のものが統合され切らないまま、矛盾を抱えたまま、ひとつの主観性のなかでせめぎ合っていることが重要なのだ。

人々はいくつかの異なった次元を並行的に歩むのです。そうして、その各次元のあいだの矛盾を引き受けなければならないのです。(42-43頁)

矛盾は、解消するのではなく、引き受ける。矛盾を、生きた体験に転じる。

世界も主観性も、複数的で複次元的であり、完全にはひとつに縫い合わされていない。そこには必ず矛盾がある。だからこそ、その矛盾を無理やり解消し、無理やり統合された主観性や世界を作り出そうという行為は、必然的に暴力的で、必然的に歪なものになってしまうし、そうやって作り出された主観性にしても世界にしても、矯正という暴力の痕跡をとどめるものになってしまうだろう。

統合に取って代わるのは、一貫性 consistenceである。超越的な統合ではなく、横断によって作り出される主観性――さらにいえば、横断それ自体が主観性なのだろう――の一貫性である。雑多なものをまとめあげ、全体化する必要はないが、全体像が必要でないというわけではない。サルトルの用語を借りるなら、「非全体化」することが必要なのだ。

しかしその横断する一貫性にしても、同質的であるべきではない、というのがガタリの議論の方向性だ。ガタリハイデガーに批判的になのは、ハイデガーの「存在」がまさにそうした一貫性のための場の一種であるとしても、その場はあまりに同質主義的で、異種混淆的な可能性を排除しているからである。

しかし、私にとって関心があるのは、存在者の背後には、あるひとつの同質的な「存在」があるのではなくて、いくつもの異質混交的な存在論的次元があるのではないかということです。(86頁) 

全体を把握するが、全体をまとめあげるところまではいかず、その手前であえて踏みとどまる。多のなかで、多を多のままにキープする。

ガタリの思考においてすべては複数的であり、複数的なものは関係し合い、矛盾し合う。しかしだからこそ、それはレディーメードなプログラムにはならず、結果はつねにオープンで、開かれているのだ。 

 

反復のなかの分岐

では、その開かれはどこにあるのか。反復のなかに、というのが、ガタリの答えである。リトゥルネロの問題だ。 

反復からいかにして特異的なものが生まれるか、の問題である。それはミニマル・ミュージックの場合がそうであるように、機械的な反復から自動発生的に立ち現れてくる創造性のように聞こえる部分もあるけれど、ガタリが意志的なモメントを大切にしていることはまちがいない。 

私の関心は、日常生活のリトゥルネル、美的なリトゥルネルから出発して、どのようにしたら再特異化の過程を生み出す分岐点を見いだすことができるかということにあるのです。いいかえるなら、私にとって、特異性というのは、一般性や普遍性といったものに対する大いなる反対物としてあるのではなくて、ある実践的な分岐点、つまりひとつの選択として出現するものなのです。たておば、私はここで何をしているのだろうか、私はこの場所に何者として存在しているのだろうか、私がいまここにこうしているということについて私は責任があるのだろうか、しかもこれから生じることについて、ただ単に私だけでなくて他者に対しても、さらにはわれわれをとりまく意味の世界の総体に対しても、私には責任があるのではないだろうか、といったような疑問をいだくことが、すなわち倫理的な選択に通じるのです。(78-79頁) 

このモデルは主知主義的にすぎるかもしれないし、主観性のエージェンシーを過大評価しすぎているのかもしれない。カリフォルニア大学バークリー校で講義をしていた晩年のミッシェル・フーコーもまた、インタビューのなかで、自らの生の美的な自己形成について肯定的で好意的な発言をしていた。この楽観性を許した理論的なゆるさは批判されるべきものかもしれない

しかし、楽観的であることを選ぶことは、ひとつの理論的戦略でもある。

わたしたちは自らに問いかけなければならない。そして、選ぶのである。選ぶことは責任を引き受けることであり、一般性であるとか普遍性の声から逃れて自律することであり、倫理-美学の領域に踏みこんでいくことだ。歴史に潜在するユートピア性を、主観性のなかで、先取りしようとすることであるし、そのようにして先取りされた主観性が、世界をユートピア性の実践の場へと変容させていくことだ。

ガタリはいまなおわたしたちに語りかけている。