うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

多数の結節点としての個人や社会(ラトゥール、レピネ『情念の経済学』)

というのも、われわれ自身のもっとも内奥では、つねに「多数」が支配しているからである。社会学主義の一世紀のあとでタルドを理解することがこれほど難しいのは、彼が社会を個人とけっして対立させず、むしろ反対に、社会も個人もどちらもかりそめの集合体であり、部分的な安定化であり、通常の社会学の概念からまったく逃れてしまうような、ネットワークのなかのノードでしかないと考えているからなのだ。(18)

 

彼の観点によれば、社会科学の根拠となっているのは、点から点へ、個人から個人へと、けっしてそのどこかで留まることなく進んでいく、一種の感染である主観性とは、つねにある個人から次の個人へと飛び移りゆく欲望と信念の伝染性のことを意味しており、そしてこれこそが決定的な点だが、それらは社会的な文脈や構造をけっして通過することがないのである。(18)