うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

分析の学、実践の学:大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書、2019)

ヘーゲルの『精神現象学』に、「誤ることへの恐怖こそが誤りそのものに他ならない」という言葉があります。これは学問について述べたことですが、同じことは、社会変革についての実践にも言えます。失敗への恐怖こそが純粋な失敗である、と。(630頁)

 

すでにある分析の学ときたるべき実践の学

社会秩序はいかにして可能かを問う、それが社会学である、というテーゼを、ライトモチーフのように、新書としては破格に分厚い600頁超の『社会学史』のなかで大澤真幸は繰り返し奏でている。

だとすれば、社会学とは、いますでに存在している社会(のなかの事象や出来事)の存在理由についての説明を提供する学ということになるし、そうなれば、そこからまたべつの問題系が立ち上がってくるだろう。

もし社会学が「すでにある」ものの必ずしも明らかになっていない根拠を明らかにするものであるとしたら、社会学はすでにその身のうちに、「いまだない」ものを到来させるための省察を含んでいることになるはずだ。たとえそこまではいかないとしても、社会学は、好むと好まざるとにかかわらず、「すでにある」ものを批判するための起点/基点である以上、社会「学」が価値中立的であり続けようとすることと、社会「学者」がそうあり続けようとすることは、質的に異なる行為であるように思うのだ。というのも、後者は、自ら知=力を放棄することに等しいからである。それは言ってみれば、悪を正せる力を持ちながら、非介入を選び、何もしないことを学問の名のもとに正当化し、悪を間接的に黙認し、悪と共犯関係を切り結ぶことを消極的ながら受け入れることだからである。

「いまだない」もの――「すでにある」ものとはべつの、それ以上に好ましい何か――を言葉のうえで語るだけの分析の学としてだけではなく、それらをこの世のなかで現実のものとするための実践の学として、社会学者は社会学の知=力を行使すべきなのか。そのような目的性から、そしてそのような目的性にむかって、社会学という学を編み直すべきなのか。

社会学は実践とどのような関係を切り結ぶべきなのか、それが、本書に通底するもうひとつのライトモチーフであるように思う。

 

二重の自意識

社会学は不確定性を含むものである、と大澤は初めのほうで述べている。社会にとって曖昧で不透明なものが社会学の対象となるということでもあるし、さらに大胆に言い換えるなら、すでに起こってしまっている事象にたいする当惑、すでになぜか起こってしまっている望ましからぬものにたいする危機感を、知に翻訳することが、社会学の社会的役割であるからかもしれない。

しかし、社会学は社会に要請されて出現したものではなかった。19世紀において社会学を打ち立てたオーギュスト・コントにしても、20世紀前後のマックス・ウェーバーにしても、大学という知的制度に収まりきらないものであった。社会学の起源は、社会にそう頼まれたからという受動的なものではなく、社会学が自らに与える自意識的=反省的なものである、というのが大澤の基本的スタンスである。社会学の存在理由は自己起因なのだ。

社会学という学問が自意識的なものであるとしたら、それは、社会学が、近代社会という自らを自意識的に捉える自己参照的なものを対象としているからである。社会学は近代の産物であると大澤は言うが、それはつまるところ、社会の自意識についての学である社会学は、社会が自意識を獲得するまでは、固有の研究対象を持ちえないからだ。

ここで大澤の立論は二重であるし、社会学と社会のあいだに単純な因果関係ではない相互作用が前提とされている。社会学は自意識的に社会の自意識を研究するのだけれど、それは、社会の自意識によって社会学が誕生したということを意味しないし、社会学の誕生によって社会が潜在的に持っていた自意識が明示的なものになるということでもない。大澤の仮説は、社会に自意識を持たせる力と、自意識的な社会学を出現させる力とが、同じ力ではないか、というものである。

大澤が本書をマックス・ウェーバーの個人的な鬱病の話から書き起こしているのは、きわめて示唆的である。大澤にとって、ウェーバー鬱病は、個人的エピソード以上の寓意性を帯びているのであり、近代社会のダウナーな方向性とウェーバー個人の鬱病は、そしてそうしたウェーバー鬱病の時期に提出した社会学史に輝く論文や論考は、偶然の一致ではないのである。そうした大澤の捉え方は、もしかすると、個別事例を全体の構造の徴候と見なすアルチュセール的読解と言っていいかもしれないが、そうしたアルチュセールの発想自体、大澤があえて社会学者として取り上げているフロイト(1856‐1939)ーーウェーバー(1864‐1920)の同時代人――の夢解釈にインスピレーションをえた社会- 歴史の精神分析的な読解であったことを思えば、大澤のスタンスは首尾一貫している。

 

さまざまな対比

大澤の描き出す社会学の歴史が、教科書になりそうなぐらいオーソドックスでありながら、決して無味乾燥な記述に陥っていないのは、大澤が、彼のピックアップした社会学者たちの理論を客観的に手際よく概説するだけではなく、鋭く批判的なコメントをそこかしこに織り込んでいるからだ。そしてなにより、大澤はさまざまな社会学者たちを比較することによって、それぞれの特徴をくっきりと浮き彫りにする。

だから、たとえば、ホッブズの画期性を語るさい、彼はホッブズがそれ以前の社会学者たちとはちがい、人の平等性原理から出発していることを強調する(58頁)。それは、別の言い方をすれば、個人主義集団主義に優先することであり、ポリス的動物として人間を定義したアリストテレスの転倒である(59頁)。アリストテレスにおいてはポリスが起源にあったが、ホッブズにおいては、個人こそが、はじまりとなる。

ホッブズにある倒錯があるとしたら、それは、水平性や平等性という普遍原理を起源において承認しておきながら、そこから、垂直性や不平等性というモデルに至るナラティヴを構築している点であろう。ホッブズの着地点は垂直的で序列的なモデルであるにもかかわらず、ホッブズが起点に想定したのは、対等の権利をもつ平等な個人であった、という点を、大澤の歴史叙述はクリアに描き出す。 

大澤のルソー解釈はスタロヴァンスキーに大いに触発されていたものであるようだが、彼が重視するのは、ルソーが透明性を称揚しているという点である。そこから、なぜルソーが演劇を嫌い、音楽や告白を好んだのかの説明が、引き出される。ルソーにあるのは、不透明性にたいする疑いなのだ(98頁)。ルソーはある種の「正しさ」というものを前提に考えており、それをブロックするものをシステマティックに忌避しているのだ、と言っていいかもしれない。

大澤によれば、ルソーの「全体意志」は、個々人の欲望や個人的な意見にすぎないものだが、「一般意志」のほうは、個人が個人的な思惑とは離れたところで「正しい」と考える意見であり、その背後には、数学的な発想があるという(93頁)。つまり、母体数が小さいほど、正誤の分布は「正しい」割合にならないが、母体数が大きくなればなるほど、実際の値は理想の値に近似していくという、確率論的な考え方である(サイコロを振る回数が増えるほどに、出目の出現数は、均等になっていくだろう)。カントの啓蒙についての考え方を援用するなら、大澤の解釈するルソーの一般意志とは、カントのいう「理性の私的利用」(個人の職業的利益や職務上の義務に縛られることなく、普遍性のために、理性を自由に行使すること)に相当するものと言っていいのかもしれない。

ルソーを透明性の社会学者と捉えれば、彼と対照的なところに来るのはジンメルになる(274頁)。というのも、ジンメルこそ、透明なコミュニケーション空間のなかですべての距離が消滅してすべてが単独者に融合するようなルソーとは裏腹に、コミュニケーション空間に距離を持ち込んだ社会学者だからである。ジンメルが構築したのは、分離と結合という二面性を含む複数性のモデルだ。

ジンメルとはまた別の意味で対照的なのは、ゴフマンである(465頁)。透明性という観点から、それを濁らせるような芝居の虚構性を忌避したルソーとは裏腹に、ゴフマンはまさに演劇をこそ、すべてのコミュニケーション・モデルの前提に据える。

 

現代は、ひとりの人間がある学問領域の全史をカバーすることが理論的にも物理的にも不可能になった時代だ。どれほど大部のものであれ、百科事典的にすべてをカバーすることはできないし、もしそれをやろうとすれば、百科事典的な始まりも終わりもないデータベースのようなものにしかならないだろう。そしてそれは、通史ではない。

大澤の『社会学史』を西洋偏重だと言ってしまうことはあまりにたやすいし、西ヨーロッパ中心主義だという批判は実はあながち間違いではない。アリストテレスに始まり、ホッブズやロックを経て、ルソーやコント、マルクスウェーバーフロイトと、英仏独を渡り歩いていくさまは、あたかも西洋のみが近代であり、西洋近代のみが社会学を生み出したかのように語るのは、ポストコロニアルな時代にはそぐわない。

しかし、大澤の歴史記述が大西洋の両岸を架橋するものになっている点は強調しておかなければならない。しかも、さまざまなものを単に並べるのではなく、互いに関連付けながら、コントラストのなかで提示してく大澤の確かな手腕は、600頁を超す通史を、読み応えのあるひとつの流れに翻訳することに成功しているのである。このような離れ業は、大澤だからこそ可能であるにちがいない。

 

ルーマンフーコーを越えて

大澤は基本的に中立的な記述を心掛けているように見えるが、それでも、大澤本人の価値判断が随所に顔を出し、それが本書を独自の通史に仕立て上げている。20世紀後半の社会学を語る段になると、大澤はブルデューフーコーハーバーマスには点が辛い。

20世紀の社会学者たちを概観する大澤は、彼らの社会的実践と社会学的理論のあいだの整合性にこだわっているように見える。大澤はルーマンの峻厳なアイロニズムーー行動してもどうにもならないさ、という悲観主義――それ自体を必ずしも支持しているようには見えないが、にもかかわらず、それがルーマンの社会理論から厳密に演繹されたものであるという理由で、似たような理論的配置からほとんど楽観的なまでの行動主義を引き出したフーコーよりも高く評価する。ルーマンにおいては理論と実践が首尾一貫しているが、フーコーではそこにほころびが生じている、と言うのである。

大澤に言わせれば、 ルーマンアイロニーは、ルーマンが自身の理論に忠実だからであり、フーコーが楽観的なのは、フーコーが自身の理論に忠実でないせいである(629頁)。大澤のフーコー批判は、たしかに的を射たものであるが、かなり痛烈なものである。 

 ルーマンの場合には、理論の帰結に忠実な実践的な態度へと到達しました。それが、徹底したアイロニズムです。フーコーの場合には、逆である。理論的な含意を徹底的に追求しないことによって、何か、権力の支配に抗する拠点を見出しえたかのように感じられるわけです。しかし、それは不徹底からくる疑似的な抵抗に過ぎないようにも思えます。(605頁)

しかし、大澤が本書の終結部でやろうとしているのは、社会理論から理論的に引き出された実践を粛々と行うことではなく、あるしかるべき実践を社会理論から理論的に引き出すための理論の編み直しではないだろうか。それはつまり、ルーマン的な厳密なやり方で、フーコー的な結論を引き出すにはどうすればいいのか、という問いでもある。

 

偶有性からはじめよう

フーコールーマンを語るという体裁のなかで自らの社会学を語りながら、神の問題にのめりこんでいく大澤の方向性が、やや不思議に感じられもする(613頁)。しかしこの方向性が出てくるのは、大澤にとって、神は、宗教の問題ではなく、社会秩序の問題だからだろう。神は、社会構造の超越性を担保するための起点であり、神の存在は社会学的問題なのだ。

絶対的でない人間が絶対的なものをもたらすには、自分の外部にそれを措定して、それを自分の内に取り込まなければならないが、かといって、自分のフィクションのフィクション性を真正面から受け入れることもできない。だからそこには、意図的な盲目性が発生することになる。それとどのように向き合うのか。神を措定したことを忘れることは、宗教の絶対性を受け入れる立場であり、措定したことを思い続けながら忘れたふりをするのは、フィクション性を受け入れ、絶対なるものが所詮は「絶対」というハリボテにすぎないことを熟知している危うい立場であり、措定したことを本当に忘れてしまうのは、自らを神話化するような立場であろう。大澤は第二の危ういポジションを選ぶ。

大澤の用語法に従えば、それは、偶有性を受け入れることである。虚構の虚構性を受け入れたうえで、それでもなお、その虚構を支えるという倒錯を、倒錯としてではなく、順接として保持することである。

だから大澤は、カウツキーやベルンシュタインに対峙するルクセンブルクを支持し、行動の必要性を説くのだが、それは理論と断絶した実践でもなければ、理論から飛躍した実践でもなく、理論から連続的に続いていくものとしての実践としての行動主義を説くのである。

偶有性を抱擁すること、それは、ルーマンのように失敗の恐怖によって自らを麻痺させないための、べつの理論的拠点を確保することである。

 私が、世界を偶有的なものとして見ることができるのは、いやそのようにしか世界を考えることができないのは、他者が存在していることを私が知っているからです。他者にとっては、世界はまったく別様かもしれない。そのように世界を別様に見る他者が存在しているということを、私は、どうしても無視できない。そのために、私にとって、世界の偶有性は絶対的で、どうしても消去することができません。

このように、<偶有性>ということを、人間の社会性に由来するものと見なし、「絶対の実在」に相当する原理として置いたらどうでしょう(627‐28頁)

 

なぜ失敗を恐れるのか。それは、現実の偶有性を信じることができないからです。現実が、こうである他ない、という思いから自由になれないからです。しかし、現実の根底からの偶有性を、基本的な前提、絶対の実在に等しい前提として組み込む社会理論を作ることができたとしたらどうでしょうか。

このとき、私たちは、おそらく、独特のひねりをともなったかたちで、実践のための指針をも獲得するはずです。その理論は、失敗ということがそのまま変革の成功へと転ずることを保証するような理論になるはずです。失敗することへの勇気のようなものをもたらす理論が現れるでしょう。」(630頁) 

この態度は勇気づけられるものではある。しかし、たしか國分巧一朗がどこかでドゥルーズの実践の理論を批判的に解説しながら述べていたように、失敗という契機を経由しなければならないことを成功の条件とする実践の理論は、社会変革の理論として有効なのか、という疑問はつきまとうだろう。なるほど、ここからは、「なにをしてもしかたない」という悲観主義は出てこないけれど、「負けるが勝ち」というか「負けても勝っている」という言い訳めいた負け惜しみが理論的に正当化されてしまいかねないのではないか。 

 

予示性は社会学的か

偶有性への開かれ、脆弱性の受け入れ、未知のものの歓待、それは、デリダ的でもあればアルチュセール的でもある偶発的唯物主義 matérialisme aléatoireだ。しかしそれは、同時に、予見性を排除して、賭けにすがることではないのか。

偶有性は必要である。それは疑いのないことだ。しかし、この態度を、予見性や予示性prefigurationと両立させなければならないのではないか。わたしの見方が絶対でないこと、わたしの見方と他者の見方が絶対的に異なっていること、それゆえ、世界は多元的であり、だからこそ偶発的な出会いがあり、それを恐れないところから失敗や成功が生まれてくること、それは真実だと思うけれども、それと同時に、未来をともに想像してくための希望の学が必要なのではないか。たとえば、エルンスト・ブロッホが思い描いたような、「いまだない」ものを想像する未来‐希望の哲学 が。