うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

リチャード・O・プラム、黒沢令子訳『美の進化ーー性選択は人間と動物をどう変えたか』(白揚社、2020)

生き物の世界では機会さえあれば、動物の美に対する主観的経験と認知的選択によって生物多様性は進化し、形成されてきた。自然界における美の歴史は終わりのない雄大な物語なのだ。(143頁)

 

進化生物学をそのルーツである優生学から完全に切り離すためには、ダーウィンが提唱した美による生命観を採用し、性選択によって適応とはまったく無関係の美が恣意的に進化する可能性があることを完全に受け入れる必要がある。(381頁)

 

ダーウィンの性選択Sexual Selectionの再導入、または動物の審美眼とその作用。人間にとっての動物の美ではなく、動物にとっての動物の美こそが、リチャード・O・プラムの『美の進化ーー性選択は人間と動物をどう変えたか』(The Evolution of Beauty: How Darwin’s Forgotten Theory of Mate Choice Shapes the Animal World--and Us)の主題である。 

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この区別は重要だ。というのも、プラムは「はじめに」で、トマス・ネーゲルの有名な論文「コウモリであるとはどういうことか」を引き合いに出しながら、他種の知覚・認識経験をわたしたちがそのまま経験することは不可能であることを認めたうえで、それでもなお、「進化を理解するためには主観的経験の概念が絶対に必要だと考えている」(18頁)と強調するからである。「動物の主観的経験を包含する進化理論」(18頁)の必要性を、プラムは説く。

プラムの定義によれば、「美に基づく進化(審美進化)」とは、「生物個体が感覚に基づく判断と認知的選択をし、それによって進化が促される過程」(19頁)である。それは、配偶者選択と強く結びつくものであり、だからこそ、性的欲望がクローズアップされることになるし、性的欲望を抱く個体だけではなく、性的欲望が向けられる個体の進化が、焦点化される。そこで明らかになる「驚くべき事実」とは、「欲望と欲望の対象が共進化する」(19頁)であり、それが「自然界にみられる並外れた美の多様性」(19頁)をもたらしたのである。プラムの議論の確信を要約すれば、このようになるだろう。

 

美の多様化、または進化の多元化

なぜ美は多様化するのか。それは、実際的な用途(種子を割る、虫をついばむ)を追求していけば、最適のかたちはおのずと限定され、同じようなところに収斂していくのにたいして、主観的なものである美の表現型については、そのような収斂が起こらないからだろう。こうして、自然選択はある種の限定性につながるが、配偶者選択は驚嘆すべき多様性に開かれる。進化にはふたつのベクトルが内包されていることになる。

異論はある。プラムが「美」とみるものを、実用性から説明しようとする潮流ーーたとえば、「美」はこれこれの能力や資質を持っていることの身体的な証拠であるーーは、かねてより存在していたし、むしろそちらのほうがメインストリームであった。しかし、プラムは、進化をひとつの説明要因に集約させるやりかたは「あまり面白くない」(22頁)と感じているし、それよりは、進化のなかに蠢く多様なほころびのほうに興味がある。

プラムはなぜ彼がそう感じたのかの理由については、あまり突っ込んで語らないが、彼が幼少期から情熱を傾けてきたバードウォッチングについての自伝的な語りから始まっていることからもわかるように、ここには、鳥の美しさに魅せられたバードウォッチャーの姿がある。自然界にみられる性的装飾の複雑さや極端さは、自然選択だけでは説明がつかないものであることを、プラムは証明しようとしてきたのだった。その究極的な目標は、美を科学の主題として復権させることであるといってよいだろう(24頁)。 

進化の要因を単一的に説明するか、多元的に説明するか、ダーウィン自身すら逡巡を重ねていた。『種の起源』においては、性選択は自然選択のなかで補助的な役割を果たすという立場ではあったが、『人間の由来』では、性選択は自然選択とは別のかたちで機能する進化メカニズムであるというスタンスに移っている。しかし、生物学者たちが伝統的に受け入れてきたのは、前者の立場であり、プラムは後者のスタンスを現代に取り戻そうとする。

実用に還元されえない美的なものが進化の一要因であるのかどうかは、ダーウィンの生前から論争の種でもあったし、ダーウィンとともに進化論の提唱者のひとりとして数えられるアルフレッド・ウォレスにしても、性選択についてダーウィンの学説に手ひどい攻撃を加えていた。プラムが本書で語るのは、性選択をめぐる学説史でもあるが、そこで垣間見えるのは、実用性仮説に固執する側がもっているイデオロギー的な偏りかもしれない。その意味で、性選択が全体として拒絶されながらも、オス同士の競争という側面は認められた(たとえば40頁)というのは、興味深い点である。

 

「危険な思想」としての性選択、または男性原理中心主義批判

性的選択を進化の多元的なファクターとして取り戻すこと、それは、生物学を「実用性」や「合理性」といったかたくなな基準から解放し、予測不可能性を取り入れ、不可逆に一方向に進んでいく線的なマッピングを批判し、生物学以外へと開いていく方向性でもある。オスの性的支配に比肩する原理として、メスの性的自律性が立ち上がってくるからであり、そこには、現代のフェミニズムにつながるような含意がふんだんにある。科学に潜在する男性中心主義、男性原理中心主義をくつがえす契機が、ダーウィンの「危険な思想」である性選択=美の進化にある。

そして、この点について、プラムは、ヴィクトリア朝的な性道徳から完全に自由ではありえなかったダーウィンよりさらに先を行っていると言ってもよいのではないだろうか。プラムが前景化するのは、オスがメスに与えた一方的な影響ーーメスをオスにとっての対象に格下げすることーーではなく、オスとメスとのあいだの相補的な進化であるし、さらに言えば、メスが進化をつうじて獲得してきた選択の自由の問題であるからだ。こう言ってもみてもいい。プラムは、美による進化の問題を、オスがメスに感じるものとしてだけではなく、メスがオスにたいして突きつけるものとして、メスが自らの欲望を表明し、追求するためのものとしても、取り扱っているのだ。美はオスによって搾取されるだけのものではない。美はメス自らのためのものでもある。

審美進化説は、女性は性の対象であるだけではなく、自分自身の欲望をもつ性の主体であり、欲望を追求する力を進化させてきたということに気づかせてくれる。性欲や性的魅力は服従するための道具ではなく、個人や集団が社会的地位の向上を促すために用いる道具であり、それが性的自律性そのものの拡大に寄与するのだ。配偶者として「何が魅力的か」について、審美眼に基づく合意があるということは、文化に変化をもたらす強力な動因となりうる。(388頁)

このように生物学が忌避していたところに果敢に切り込んでいくプラムは、美が生物的であると同時に文化的なものであることを認めるし、そこからさらに前進し、文化が進化のプロセスに影響を及ぼす可能性、「生物的進化や遺伝的進化にフィードバックをもたらす可能性」(299頁)ーー「トップダウン効果」と呼ばれるものーーについて思考していく。

それは、進化における自然と文化の相互作用を考えることにほかならないだろう。そこで生物学は、もはや、ただたんに生物学であることができなくなるはずであるし、それはまさにダーウィンが『人間の由来』で目指した方向性である。本書が、鳥類の求愛行動や性行動の例から始まり、霊長類のペニスの話を経て、ヒトの事例(しかも、異性愛のみならず同性愛まで含めた性選択と美的進化の問題)へと進んでいくのは、まったく自然である。

 

自然の文化と相補的な進化、または自然によって解きほぐされるわたしたちの文化

本書の面白さが具体例にあることはまちがいない。プラム本人の研究についての逸話から、彼が観察した鳥の描写まで、ここにはとてつもない熱量がある。そして、タブー視されている領域を解きほぐすように、進化の多様性を美という側面から説き明かそうとするし、そこには、男性原理を自明のものとして取り扱いたがる科学言説にたいする芯の強い批判がある。しかし、そうした勇敢さを、プラムはひけらかさない。彼の語り口はむしろ飄々としている。それが本書の批判を、痛烈というよりも、どこか愉快なものにしている。口絵の美しい鳥のカラー写真や挿絵も、本書を愉しく彩っている。

個人的には5章の「カモのセックスーー雌雄の軍拡競争とレイプ」にもっとも興味をそそられた。カモのペニスの伸ばし方を検証するために異なったかたちのガラス管の制作を依頼に行くという逸話も面白いし、メスの意思を無視して交尾を強行する暴力的なオスにたいして、メスがどのような膣構造を進化させ、防衛を試みてきたかという話は、プラムの強調する「共進化」や多元性、複雑さや予期不可能性、そして美をクローズアップすることで見えてくる進化論のなかのフェミニズム的主題ーーメスの性的自律性や選択の自由ーーの好例であるし、そのような研究がいかに社会に誤解されうるかの具体例にもなっている。

本書はたしかに美的進化をめぐるテクストであるが、同時に、美という主題を経由することで、進化におけるメスの性的自律の問題ーーそれは、オスの性的自由と相補的であると同時に、対抗的な問題系であるーーについて思考することである。それは、生物学を経由することで、わたしたちの生ーー生物学的で文化的な性ーーについて、再考することであり、女性の自律が、けっしてここ半世紀の発明ではなく、生物進化をつらぬく大きなテーマであることを、わたしたちに知らしめることでもある。進化とは、表現と評価という相補的なコミュニケーションの賜物であることを、わたしたちに知らせることである。プラムのテクストの勇気づけるような力強さは、おそらく、そこにある。

 

プラムは、ダーウィンに倣って、生命の多様性と複雑性に驚嘆し、その美を称える。