いまここにあるのよりもっといいものがある:チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ、くぼたのぞみ訳『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社、2017)

フェミニストじゃなくていい人なんてひとりもいない

タイトルがすべてを語っている。「男も女もみんなフェミニストでなきゃWe Should All Be Feminists」。ナイジェリアの小説家アディーチェが2012年にTEDxEustonで行ったトークの加筆版である本書は、100頁弱の小著で、理論だとか思想だとかいう面で何かあたらしいわけではないけれど、彼女の語るフェミニズムは古くも温くもない。ウィットにとんだしなやかな語りは、依然として社会に蔓延する性的不平等や不正義にいきどおる熱い思いから放たれたものだ。

現在機能しているジェンダーは非常に不公平です。わたしは怒っています。私たちはみんな怒るべきです。怒りにはポジティヴな変化をもたらしてきた長い歴史があります。でもわたしには希望もあります。自分たちをより良いものに作りなおす人間の能力を信じているからです。(34頁)

Gender as it functions today is a grave injustice. I am angry. We should all be angry. Anger has a long history of bringing about positive change. In addition to anger, I am also hopeful, because I believe deeply in the ability of human beings to remake themselves for the better.

「男らしさ」とか「女らしさ」という社会的な色眼鏡で世界を見ることをやめよう、こうある「べき」だという「期待の重圧」から解放され、個人が本当に自分でいられる、自由で幸福な世界をめざそう(56頁)。それがアディーチェがフェミニズムフェミニストという言葉で表現しようとしているものである。

 

フェミニストのイメージを変える

幼少期から成功した小説家にいたるまでの自伝的なエピソードを交えながらのトークのなかでアディーチェがやろうとしているのは、フェミニストを肩ひじの貼らないユーモラスなものにすること、フェミニズムを格好いいものにすることではないかという気がする。

フェミニストということばをリフレッシュさせなければいけない」(79頁)。というのも、フェミニズムに問題があるとしたら、それは、フェミニズムという考え方それ自体ではなく、フェミニズムフェミニストにたいするネガティヴな受け止められ方のほうにあるかもしれないからだ。

最初のほうで語られる名称遍歴は、もちろんジョークとして語られているけれど、彼女のトークの基調をピタリと定めている。フェミニストは夫を見つけられない不幸な女性のことだと忠告するジャーナリストに応えて「Happy Feminist」と自称し、フェミニズムは西欧由来のものだと批判するナイジェリア人女性に応えて「Happy African Feminist」と改称し、フェミニズムは男嫌いのことだと言う友人に応えて「Happy African Feminist Who Does Not Hate Men」とさらに改称する。そしてその後、「Happy African Feminist Who Does Not Hate Men and Who Likes to Wear Lip Gloss and High Heels for Herself and Not For Men」になったというくだり、果てしなく長くなっていく名称についてのエピソードは、現代において、フェミニズムが守勢を強いられ、謂れのない批判にさらされ、馬鹿馬鹿しいほどに言い訳を繰り広げなければならないはめに陥るさまを、端的に描き出している。

怒っていいどころか、怒るべきだけれど、それは、つねに怒りっぱなしでいなければいけないということを意味しない。

 

強靭な男がまだ必要?

アディーチェの姿勢は柔軟だ。数回にわたって、男と女が生物学的に異なることを認め、単純な身体能力にかんしていえば、一般には男のほうが秀でていることを認める。しかしそれに続けて彼女が問うのは、果たしてそうした生物学的な差異から、社会的な含意を引き出すべきなのか、という点である。男のほうが強靭な体をもっている「から」、女よりも高賃金である「べき」なのか。

アディーチェはこうも問う。なるほど、強い男が世界を支配する指導者となるのは、身体的強靭さが絶対に必要だった1000年前なら妥当だったかもしれないが、はたして現在でもそうなのか。むしろ、現代に求められているのは、身体的な強さではなく、知性や創造性に優れた、革新的な人物ではないのか。そして、知的、革新的、創造的であることに、ホルモンは無関係なのだから(29頁)、現代における指導者が男でなければならない理由はないではないか。

問題は、わたしたちの社会的な考えのほうにある。社会のほうは生物的なものに頼らなくてもいいように進化してきたのに、よりによって、社会を構成するわたしたちのほうは依然として生物的なものにとらわれたままになっている。

 

「らしさ」という期待の重圧がみんなにのしかかる

「らしさ」の弊害は、男にも女にもひとしくふりかかってくる。たしかに現代社会において、とくに彼女が生まれ育ったナイジェリア社会では、女性のほうが「女らしさ」という期待の重圧にさらされているようにも見える。高級ホテルのロビーに女性がひとりで入っていけば娼婦と間違われて警備員に引き止められる、クラブやバーに入れてもらえない。似たようなことは、西欧社会においても――そしてもちろん、日本社会においても――あてはまるだろう。男がやればほめたたえられることも、女がやれば非難の対象になるというダブルスタンダードだ。

しかし、こうした状況は、男のほうをも苦しめている。というのも、「らしさ」という歴史的に形成されてきた社会的通念は、男の人間性を抑圧してきてもいるからだ。男もまた、社会の考える「べき」の姿にしたがって、自らを矯正することを要求される。女を見くびる社会文化を――自ら望んだのであろうとなかろうと――内面化した男は、内面化の必然的な帰結として、女一般にたいする侮蔑を彼の周囲にいる実際の女たちにまき散らすことになる。

この負の連鎖を、どうにかこうにかしのぐどころか、それを逆手に取ってそこで繁栄できる男女が少なからずいることは事実だろう。マッチョな「男らしさ」を自然に身につけられる男、いまの社会が想定する「男らしさ」をほとんど生まれながらにして持ち合わせているような男、そうした男たちを手玉に取ることのできる特性を持ち合わせている女、そうしたものを学び取ることにさしたる抵抗を感じなかったり躊躇する気持ちを乗り越えられてしまう女。しかし、そうした男女がいるという事実から、そうした男女に「すべてのひと」がなるべきだという議論を引き出すべきなのか。それは結局のところ、あるべき姿をかなり狭いところに限定することになる。

とても狭い意味にしか理解されない「男らしさ」という「堅い小さな檻」のなかに男のを閉じ込めること(42頁)、本当は強くなりたいとは思っていない男の子にまで強くあれと強要することは、まわりまわって、世界全体を歪んだものに仕立て上げることになる。ハードにあることを強いれば強いるほど、ハードでなければならないという強迫観念の虜になればなるほど、彼のエゴは脆いものになってしまう。そして、そうした脆い男をケアしてやれる女がますます求められるようになり、女の人間性も否定されることになる。ここには負の連鎖しかない。恐怖や不安にとらわれた、何が何でも弱さや脆さを否定しようとする弱くて脆い世界が作り出されてしまう。

 

子どもたちの教育による未来への希望

しかし、「らしさ」による人間性の抑圧が社会的な教育の結果だとしたら、「社会のなかで生きることによって、その価値観を内面に取り込んでいく」(49‐50頁)のだとしたら、それは社会的な教育によって解除することができるのではないか、わたしたちはもっと自由で幸福なかたちでわたしたちのありかたを作り直していけるのではないか。そのような希望をアディーチェは雄弁に語る。

ジェンダーの問題は現在の社会のいたるところにあるし、それは、子どもの教育をとおして未来にも引き継がれてしまうものだ。しかし、もしわたしたちが未来を変えるためにいまここで考え方を変えられるとしたら?

子供たちを育てるときに、もしもジェンダーよりもその子の「能力や才能」に焦点を合わせたらどうでしょう? ジェンダーよりもその子の「興味や関心」に焦点を合わせたらどうでしょう?(59頁)

What if, in raising children, we focus on ability instead of gender? What if we focus on interest instead of gender?

要するに、「性」よりも「人間性」のほうを重視するような文化を、静かな精神的革命を 持続的に発生させていけるとしたら、どうだろうか。

マーティン・ルーサー・キングJr牧師は「白人の子と黒人の子が同じテーブルについて食事をする」というヴィジョンを未来において起こりうるかもしれない「夢」として語ったけれど、アディーチェはこのビジョンをもはやすでに到来している現実の可能性として語っている。そこにこそ、アディーチェのトークのパワーがある。

 

内面化したことを学び忘れる

しかし、この学び直しのプロセスは、なかなか難しいものであり、アディーチェすらそう感じるときがあるという。それほどまでに「成長する過程で内面化したジェンダーのレッスンを学び忘れる unlearn many lessons of gender I internalized while growing up」(61頁、訳文を一部改変)ことは難しいのだ。彼女ですら、大学院でライティングのクラスを教えるとなれば、女としての自分の価値を証明するために、彼女が着たい服――「シャイニーなリップグロスをつけて、女の子っぽいスカート」――ではなく、社会の考える彼女が着るべき服――「真面目な、とても男っぽい、とても不格好なスーツ」――を着ていってしまったのだから(63頁)。

どうしたらいいのか。

これはもう、ある種の開き直りが要るのかもしれない。内面化された社会の声の命じることではなく、本当に自分がやりたいことに素直に耳を傾ける正直さが、そしてそれを怖じることなく表明するリラックスした心構えが。

わたしはもう女であることに弁解じみた態度をとらないと決めました。女であることでそのまま敬意を受けたいのです。当然そうあるべきなのですから……わたしの生活上の選択を決めるとき、「男性の視線」はきわめて二次的なものです。(65‐66頁)

I have chosen to no longer be apologetic for my femininity. And I want to be
respected in all my femaleness. Because I deserve to be......The “male gaze,” as a shaper of my life’s choices, is largely incidental. 

そう言ってしまえるほどに自分を信じることが。

 

いまここにあるのよりもっといいものがある

ジェンダーの話が居心地が悪いのは、ジェンダーのせいでもフェミニズムのせいでもないだろう。今ある社会を前提から疑い、根底から変えていこうという革命性が、わたしたちを居心地悪くさせるのだ。

しかし、いまここにあるものが決して最善ではないとわかっていながら、そこに踏みとどまることは正しいのだろうか。

もちろん、正しくない。それに、かりにわたしたちが社会的存在であるとしても、社会や文化が決めてきたことを無批判に受け入れることは、わたしたち自身の人間としての自由を社会に差し出すことにほかならない。それは自らを自発的な隷属状態に置くことと同じだろう。

文化が 人びとや民族を作るわけではありません。人びとや民族が文化を作るのです。もしも、女性に十全な人間性を認めないのが私たちの文化だというのが本当なら、私たちは女性に十全な人間性を認めることを自文化としなければなりませんし、それは可能です。(76頁)

Culture does not make people. People make culture. If it is true that the full humanity of women is not our culture, then we can and must make it our culture.

 

翻訳について

くぼたのぞみの訳はウィットがあるし、読んでいてとくに気になる部分もないけれど、原文と並べてみると、意外と「あれっ」と思うことがあった。誤訳しているというのではなくて、あえて意訳しているのだという箇所がずいぶんあるような気がしたからだ。もちろんこれはこれで翻訳者の腕であるし、そうとう優れた手腕であるのだから、そこにぐじぐじと目くじらを立てるのは度量の狭い行為だし、それこそまさにソルニットのいうmansplainingな態度である気がするから自重すべきところではあるけれどーーという言い訳がすでにアリバイ作り以外の何物でもない以上、すでに二重に罪深い行為であると言うことでさらに罪を重ねるばかりではあるのだけれどーーそう思ってしまったことは事実なので、ここに記しておく。