進化の予測(不)可能性:ジョナサン・B・ロソス、的場知之訳『生命の歴史は繰り返すのか?』(科学同人、2019)

進化は繰り返すか、繰り返さないか:グールドVSコンウェイ=モリス

進化は繰り返さない、よって予測不可能である(スティーヴン・ジェイ・グールド)。進化は繰り返す、よって予測可能である(サイモン・コンウェイ=モリス)。

正しいのはどちらか。ジョナサン・ロソスは『ワンダフル・ライフ』でグールドが述べた「生命テープのリプレイ」をめぐる論争やその後の顛末を、科学者たちの具体的なエピソードを交えつつ、巧みに描き出していく。

ロソスのスタンスは、基本的にコンウェイ=モリスの収斂進化――「似たような環境に対して、異なる種が同じ適応をとげる」(93頁)よりだ。実際、ロソスは「収斂進化という現象はある」という点を証明済みと受け取っている。収斂は生物の歴史を見渡しても、現存する生物を見回しても見ても、普遍的に観察される事象である。だから、彼が問題にするのは、収斂があるかないかという一般論ではなく、収斂はいつ起こりいつ起こらないのかという具体論である。

 

実験による進化の検証

収斂進化が本書のひとつに軸であるとすれば、もうひとつの軸は、実験による進化の検証だ。実験精神が旺盛なダーウィンではあったが、進化は地質学的な長期スパンで緩慢にしか起こらないだろうと考えたがゆえに、実験による進化の検証を試みようとはしなかったし、進化は実験不可能という考え方が生物学を長く支配していた。

ロソスが本書で強調するのは、進化はダーウィンが思っていたのよりずっと速くずっと短期間で進行しうるという点であり、実験室だけではなく自然環境下でさえ、進化を実験的に検証するのが可能であるという点だ。実際、さまざまな実験が行われ、さまざまな検証が成されてきている。

ロソスの本はさまざまなエピソードに充ちているが、こうした進化実験にまつわる苦労話がもっともヴィヴィッドで、読んでいて楽しい。それは生物オタクの科学者たちが――ロソス自身、子どものころは恐竜マニアで、その後、爬虫類オタクに鞍替えし、爬虫類研究者になった――DIY精神で実験器具を手作りしたり、灼熱の太陽のなか岩だけの島に行ってトカゲを捕まえたり、密林に分け入り渓流をさかのぼったり、雨の日も風の日も雪の日も大腸菌の培養を20年以上にわたって継続したり、というふうに、スリルというよりは危険や我慢が盛りだくさんの険しい道を、地道に堅実に少しずつ進んでいく物語でもある。

本書は収斂進化をめぐる議論として読むのが王道の読み方だろうけれど、科学者たちの苦労話エピソード集として読んでも充分面白いし、ロソスの筆致がいちばん生彩を帯びるのは、そうしたエピソードの波乱万丈さと、そこにあふれかえる知的興奮を、熱っぽく語るときだ。この意味で、本書は、ロソスの知的自伝であると同時に、実験による進化の検証を試みている科学者たちの伝記集のようでもある。

 

環境か個体か

ロソスはコンウェイ=モリスの収斂進化に与する立場から始め、最終的には、グールドを否定するというよりも、グールドの「生命のテープのリプレイ」というアイディアを精緻化し、進化は予測可能であり予測不可能でもあるという結論に至る。

もし同じ環境のなかに、同一の個体群を置いて、生命のテープをリプレイすれば、そこでの進化は収斂的である。しかし、もしそこに何か異なった要素を導入すると――スタート地点を変えたり、途中で異なるできごとがあったり――個体群には分岐が起こりやすく、大きく異なった進化的帰結が生じることがありえる(299‐300頁)。こう言ってみてもいいかもしれない。短期的にはある程度まで予測可能だが、長期になればなるほど的中率は下がる(356頁)。

要するに、ここで問題となるのは、進化を環境の側から考えるか、それとも有機体の側から考えるか、という点ではないだろうか。予測不可能性についても、両サイドで機能している。ここではいくつかのパラメーターを分けて考えてみるべきだろうか。もちろん、進化は、それらのパラメーターの関係の問題にほかならないのではあるけれど

環境の予測不可能性(たとえば自然災害)

環境の所与の恒常性

 

集団=個体群として引き継いできた所与の遺伝子

個体のなかで起こる予測不可能な遺伝子の突然変異

環境の所与の恒常性が強く働く場合、個体のなかでおこる突然変異すらも包含するような状況が作り出される。そこでは、環境が、生存のための最適の形態や生存戦略を規定し、個体群は必然的にそれに沿った方向に適応していくだろう。

しかし一個体のなかで起こった突然変異が、または、個体群のなかではマイナーだった遺伝子が、環境の突然の変異によって最適な形態や生存戦略が変わった結果、集団=個体群のなかで支配的になり広がっていき、個体群の形を変えていくこともあるだろう。

別の捉え方もできるかもしれない。収斂の議論はつまるところ表現型を中心にしている。「似たような環境に対して、異なる種が同じ適応をとげる」というのは、明らかに、環境から考えようという態度であるし、環境が求める最適のかたちになるための手段は問わない(どの遺伝子からそうなるかは問題ではない)という結果優先のスタンスである。しかし、突然変異を軸にして、個体群が引き継いでいく遺伝子の連鎖を考えるという立場は、当然ながら、遺伝子優先、個体(群)優先の見方である。

しかし、問題は、どちらが進化ファクターとして重要かではなく、両者がどのように変動し、どのように関係しあうか、という点だ。進化は共時的であると同時に通時的な問題であり、パラメーターのどちらかに寄せて考えるだけでは不十分である。

 

便利屋であってエンジニアではない

ここで興味深いのは、ノーベル賞を受賞したフランスの科学者フランソワ・ジャコブによる、「なぜ自然淘汰が必ずしも完璧なデザインを備えた生物を進化させないのか」のたとえ話的な説明である。ジャコブによれば、進化とは、長い目で見て最適になるように(そのために短期的なマイナスを受け入れるように)進んでいくことではなく、いまここの状況のなか、手持ちのカードのなかでのベストを作り出していくようなプロセスである。

自然淘汰は目の前の問題への最適な解決策をいちからつくりだすエンジニアではない。むしろ修理屋であり、手元の使える材料は何でも使って、間に合わせの解決策を実装する便利屋だ。その結果は、ありうるすべてのなかの最適解ではなく、そのときの状況において実現できるなかでベストであるにすぎない。(101頁)

進化がプロセス的なものである以上、個体群はつねに前から引き継いだものの堆積であるし、それはほとんど場当たり的に増築を加えたような不格好なものですらあるだろう。

ロソスは次のようにも述べている。

自然淘汰に先見性はない。ゆくゆくは最適な形質を生みだす道のりの最初の一歩だからという理由で、有害な形式が保存されはしないのだ。自然淘汰によって形質が進化するためには、途中のどの小さなステップも、前段階と比べて改良されていなければならない。たとえ進化の移行段階であっても、自然淘汰は劣った形質を決して優遇しないのだ。(102頁)

もちろん、進化がそうしたものであるにもかかわらず、あたかも最初からデザインされていたかのようにエレガントにみえるところに生命の神秘があるのかもしれないが、ここで重要になってくる進化論の歴史学的含意は、次のようなものであるはずだ。

歴史も生物も、ゼロから好きなように作り上げられるのではない。つねにすでに条件は決まっており、つねにすでに材料は与えられてしまっている。その「ある程度決まってしまっている」状況のなか、環境との兼ね合いで、いちばんうまくサバイブするための道が見つけられていく過程、それが進化である。

 

次善の適応、または偶発的進化の予測不可能性

ロソスは、収斂はあるかないかではなく、いつ収斂していつ収斂しないのかと問いを変えていたが、その議論の方向は正しいのだろう。進化がゼロからのスクラップ・アンド・ビルドでない以上、ある時間のある環境のなかのある個体群にとっての最善策は、その個体群にとっての絶対的な最適案ではない。

プロセスが需要なのだ。どのような順番でいまあるかたちにたどりついたか、そのためにプロセスの途上にあるも何か。そして、表現型としては見え難いとしても、遺伝子型として引き継いできたものは確かにある。ノイズのようなものにすぎなかったもの、ジャンクのようなものにすぎなかった遺伝子群が、環境次第で突如として有意な情報に代わることもありえる。

結果として、生物は次善の適応にとどまる場合がある。そのような種の祖先は、理由はどうあれ、適応に至る最適ルートを選択しなかった。そのため、自然淘汰をくぐり抜け、適応をとげたものの、ありうる最良の形質を獲得したわけではなかった。この推論から、偶発性が進化の行き先を定めるうえで重要な役割を果たす可能性が明らかになる。また結果的に、同じ環境条件におかれた複数の種が必ずしも収斂しない理由も、これで説明がつく。祖先の遺伝子型と表現型にみられる差異や、最初にどの変異が生じるかによって、生物は異なる適応をとげ、時には最適解に劣る形式に甘んじることもあるのだ。(102頁)

しかし本書を読んでいて最後までいまひとつ納得できなかったのは、進化と適応の差異である。教科書的に言えば、適応が遺伝的に次世代に引き継がれていくことが進化である。つまり、適応を可能にした要因が遺伝的なものである(たとえば肢が長いとか、ある特定の物質をエネルギーに変えることができるとか)ということが、進化としてカウントされるための絶対条件だ。

それは要するに、ラマルク的な「獲得形質の遺伝」説が現代遺伝学では認められない理由でもある。どんなに頑張って筋トレしたところで、筋トレで肥大した筋肉は子孫には遺伝しない、つまり、代々筋トレに励んだところで、子孫の筋肉量が累積的に増大していくことはありえない。進化で問題になるのは、次世代に生物学的に、遺伝子によって引き継がれうるものだけである。

とはいえ、この疑問はおそらく、ロソスが強調する進化のスピードにいまひとつついていけていないこちらの鈍さのせいなのだろう。ほんの数世代のあいだに個体群の表現型が大きく変わっていくような生物の場合であれば、適応と進化の距離は必然的に短くなるはずだからだ。

ロソスの議論は、これまでの遺伝学を一新させるようなものなのかというと、そういうことはないようだ。ダーウィンの議論は依然として大筋では正しい。進化に方向性はなく、所与の自然環境のなかでもっとも適応的な個体が生き残り、それらが再生産によって遺伝子を次世代に引き継いでいく。進化は個体と環境の関係である。

進化はいわば結果論的に、遡及的にしか語ることができない。なるほど、生命のテープをリプレイすることによって、遡及的に推論したことを実証的に検証することは可能であるけれど、それによって未来が完璧に予見可能性になるわけではない。生命は依然として可塑的で、可能性をはらんでいる。たとえその可能性がどんなものであるか、良いものか悪いものか、幸せをもたらすのか不幸をもたらすのかは、まったく予見不可能であるとしても。

 

広大な生物学的可能性の世界

進化は全くのランデムではない。自然環境は生物に淘汰圧をかけ、異なった種を似たような形に仕立て上げていく。ときには最適解にたどりつくこともあるし、ときには最適解にたどりつけないこともある。手持ちのリソースが足りなかったり、それまでに引き継いできたものでは不可能であったりするからだ。しかしながら、所与の環境における最適解が限定的である以上、そこでは、生物は収斂に向かう。

それが本書を通じてロソスが繰り返してきたことである。しかし本書の最後の数頁が提示するのは、ダーウィンが『種の起源』の最後で美しく描き出したように、生物学的可能性の世界の広大さだ。進化は収斂し、進化は繰り返すだろう。しかし、それでも、収斂しない進化はあるし、繰り返さない進化がある。

スタート地点での誤差のようなほんの小さな違いが、後々に大きな違いを生む可能性は否定できない。「たくさんのヒト型のドッペルゲンガーが進化し」、「有袋類人間」に加えて「キツネザル人間、クマ人間、カラス人間、トカゲ人間」が存在し、「それぞれに異なる進化系統の代表者たち」が国連に一堂に会していた可能性もありえたかもしれない。

ロソスが最後に表明するのは、生命にたいする驚嘆であり、畏怖であり、そして、生命への讃歌である。わたしたちは運命の奴隷などではない。わたしたちは幸運の産物であり、それは言祝ぐべきことであっていいのだ。

数十億年前の生命の起源に立ち返れば、どんな進化の結末も、ありえないものに思える。けれども、物事は実際の歴史のとおりに起こり、今わたしたちはここにいる。それは、数十億年にわたる自然淘汰と、歴史の気まぐれが、生命にほかならぬこのひとつの道を歩ませてきた結果だ。わたしたちはラッキーだった。運命づけられていたわけではない。幸運にも進化してつかんだこのチャンスを、存分に活用しない手はない。(357頁)