うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

生物の生得的な数学的能力、人類史における数学の社会的有用性:ステファン・ボイスマン『公式より大切な「数学」の話をしよう』

数学を使えば、都市やある程度以上の大きさの社会集団の事務処理が簡単になる。課税・徴税は数を用いなくてもできるが、かなり込み入った仕事になるため、実質的には数学なしには無理だ。集落の規模が大きくなり、交易がさかんになれば、どこでも数学が発展しはじめる。都市の計画、建物の設計、食糧備蓄の管理、兵器の製造。いまではすべてに数学が用いられている。数学がないころでも生まれつきの才能にたよってはやってこられたが、いっそう効率よく正確に進めるためには数学が必要なのだ。(118頁)

 

何でこの本のことを知ったんだろう。Facebookのおすすめに出てきたAmazonか『東洋経済』のリンクだったような気がするが、いまいちはっきりしない。ともあれ、手軽によめて、とても興味深い本ではあった。

 

ここでボイスマンは数学がいかにわたしたちの生活に密着したものであるかを、Google Map の経路探索や Netflix のおすすめ機能を引き合いに出しながら、できるだけわかりやすく説明している。彼がわたしたちに提示するのは、数学とは何かという原理論ではなく、数学には何ができて、どう使われているのかという実用論である。

だから彼は数学の始まりを、古代文明における徴税(大量の物品の収集と分配の管理)や、前近代的な社会における建築(家や橋の建造)から語り起こすのだろう。ボイスマンに言わせれば、数学は必要性から生まれたもの、人間社会ある一定の規模を突破して拡大していくなかで、大きな数を効率よく取り扱うという必要性から生まれたものである。

数学が必要になる理由は何だろう。メソポタミアでは、都市国家を組織するために数学が必要だった。徴税をはじめ食糧備蓄の計画や建物の建設が、数学を用いることで楽にできるようになった。また「楽にする」ことが必要だったのも事実だ。人口が膨れあがるなかで数学を使わなかったとしたら、とても立ち行かなかっただろう。(98頁)

数学は人間社会の規模がある臨界点を越えるところで、物事を円滑に運用するという必要性から生まれるものである、とボイスマンは述べる。数学の誕生は、国家的なものの誕生とパラレルである。

しかし、こう問うこともできるだろう。数学が生まれたから、国家が生まれるのか。国家が生まれたから、数学が生まれたのか。数学と国家、どちらが原因でどちらが結果か。

 

しかし、ここで興味深いのは、彼が数学は人間が生きていくうえでかならずしも必須のものではないと認めている点だ。

数や幾何学を使わなくても、たいして問題なく暮らしていけるということだ。人間は、生まれたときから数量や距離、ものの形を処理できる。人間の脳はヤムイモがカゴに何本ぐらい入っているか、向こう岸までの距離はどのくらいか、家を1家建てるのにどれだけ木を切り出すべきか、といったおおまかな判断には数学を必要としない構造になっている。(82頁)

というよりも、こう言ってみたほうがいいのかもしれない。ボイスマンに言わせれば、数学的能力(1桁の数を認識する能力、多い少ないを認識する能力、空間認識能力)は、人間のみならず、動物にも、ある程度までは生得的に備わっているものである。数学を受け入れる素地はわたしたちのなかにすでにある。数学はすでにわたしたちのなかで、無意識的なレベルでは、始まっているのかもしれない。

しかし、数学的能力と数学は違う、とボイスマンは力説する。数学は、「学習を通じて身につけるべきもの」であり、そこでは、「考える」ことが必要になってくる(82頁)。要するに、数学が数学「として」始まるには、何かしらの道具立て(たとえば数や記数法)が必要になってくるということであり、それは、そのような道具立てを共有する共同体があり、そこで練り上げられた知識が世代を越えて継承されていくことが必要になってくるということでもあるだろう。

 

あらゆる場所で、あらゆる時代で、数学的なものは実用化されてきてはいる。しかし、あらゆる場所で、あらゆる時代で、数学が意識的なかたちで、抽象的な理論や仮説として立ち上げられてきたわけではない。古代メソポタミアやエジプトは、徴税のために実用的な算術を、エリート官僚の必須スキルとして発展させたが、それを理論的なものとして練り上げはしなかった。中国史において、算術はむしろ技術屋の領分であり、官僚のものではなかったが、占いの文脈で記数法が考案され、中近東と同じく実用的なものとして発展していったが、中近東と同じく純粋に理論的なものにはならなかった。このように、数学には複数の起源があるが、後代につながる数学の基礎を築いたのは古代ギリシャであった。

ボイスマンは、公式や数字を前面に押し出すことなく、人類史を念頭に置くことで、数学を歴史的文脈に位置付けていく。

だから、彼が詳述するのは、ひとつには、古代における算術的なもの(貯蔵のための足し算、分配のための割り算)であり、それは、固定した数をめぐるものである。

もうひとつは、近世における微分積分であり、それは変化をめぐるものである。「それまでは、変化しないものしか計算できなかった。数えられるのは連続的に変化しないものだけ、測れるのはずっと同じで、変わらないものだけだった。ニュートンライプニッツが導入した無限の概念と新しい数によって、この状況が変わった。」(132頁)

もうひとつは、近代における統計と確立であり、それは未来(これから起こるかもしれないし、起こらないかもしれない事象)をめぐるものである。

もうひとつは、グラフ理論であり、それは関係の抽象化——実際の地形を線や点のような要素に還元する——)であり、グーグルの検索技術につながるものである。

 

ボイスマンがここで語るのは、数学そのものというよりも、数学の社会的有用性であり、それが彼の話題選択を決定すると同時に、制約している部分はある。この本のなかで語られていない数学の分野は少なくないはずだ。

しかし、数学の社会的有用性にフォーカスすることで、数学を歴史的に語ることに彼は成功している。一方において、数学史における偉人たちを登場させ、彼らの人間的な側面を浮き彫りにする一方で——たとえば微積分の発見をめぐるニュートンライプニッツ泥仕合、賭け事を発端として確率論を考案したパスカルフェルマー、盲目になっても数学の研究をつづけたケーニヒスベルクオイラー(カントの同時代人で同郷人)——、物語を、数学史上の発見に限定することなく、世界史において数学が果たしてきた歴史的役割のほうに開いていく。

こういうとちょっと褒めすぎかもしれないが、この本は、たとえば生物学(進化論)にたいしてスティーヴン・ジェイ・グールドがやったような、すぐれた社会学的な数学エッセイになっていると言っていいだろう。2016年のアメリカ大統領選を例にとりながら、統計の危険性について警鐘を鳴らしているあたりに、書き手の良心や倫理がうかがえる。

 

とても楽しく、楽に読める。ただ、やや軽いというか、それなりに知っている読者からすると、知っていることばかりで物足りないところかもしれない。

これでわたしたちが数学を好きになることはないような気がするし、数学をあらためて勉強してみようという気になるかどうかは疑わしい気がする。しかし、この本を読んだと、数学が、前よりもずっと身近なものに感じられるようになることはまちがいない。

翻訳は最初のうちはすこし引っかかるような感じもあったが、読んでいるうちに気にならなくなった。ところどころで日本の事例(たとえば大阪の地下鉄)が取り上げられているけれど、これは原書でもそうなのだろうか。オランダ生まれで、スウェーデンストックホルム大学で最年少で博士号を取ったという著者の経歴からすると、ちょっと不思議な感じがするところではある。