うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230306 『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』を観る。

大真面目に作った壮大なB級映画と言いたくなる出来だった、『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』は。「ようこそ最先端のカオスへ」というポスターの宣伝文句は、良くも悪くも、的を射ている。物語内容も、ストーリー展開も、映像表現も、ごちゃまぜ感がある。ゴージャスでありながら、チープ感がある。どこか垢ぬけないところが残っているが、それはあえてだろう。削ぎ落して洗練させるのではなく、継ぎ足してゴテゴテにする、それがこの映画の基本方針であるように感じた。

ドビュッシーの「月の光」のようなクラシック音楽の一節が繰り返し使われているかと思えば、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙への旅』の超有名な冒頭シーン――リヒャルト・シュトラウスがフリードリヒ・ニーツェの『ツァラトゥストラかく語りき』にインスパイアされて作曲した交響詩の冒頭が流れるなかサルたちが骨肉の争いをくりひろげるシーン――が引用される。ジャッキー・チェンやブールス・リーのカンフー映画を思わせるような格闘シーンがある。

しかし、それらの引用が何のために使われているのかは、いまひとつ判然としない。引用それ自体がひじょうにうまく行われているし、それ自体として面白いシーンになっているので、深くツッコまないほうがいいのかもしれない。ただたんに、ごちゃごちゃになるまでいろんなものがいっぱいにつめこまれた、バリエーション豊かな映像を愉しめばいいのかもしれない。小難しいことは考えずに。

 

しかし、かといって、エンターテイメントに振り切った映画というわけでもない。映画自体はEverything、Everwhere、All at Onceという3パートにわかれているけれど、1度見た程度では、いまひとつピンとこない構成だった。

マルチヴァース multiverse というアイディアが根本にある。マルチは「複数の」、ヴァースは「宇宙」の意味であり、この物語世界では、並行世界のようなものが多数存在している。

キャラクターたちは、別のヴァースで獲得したスキルを召喚したり、別のヴァースにジャンプしたりする。さまざまなヴァースがこのヴァースに集結し、すべてのヴァースの命運をかけて、壮大な闘いが繰り広げられることになる。

しかし、その根底にあるのは、古くてオーソドックスな物語。夫婦関係の危機、母子関係の危機。この映画は、いくつもの宇宙をまたいで展開される壮大な夫婦喧嘩、親子喧嘩であり、最終的には、あっけなくハッピーエンドにたどりつく。まったくよくある物語のように。

 

この宇宙のイーヴリンは中国からの移民第一世代。夫となるウェイモンドと駆け落ちしてアメリカにやってきて、苦労を重ねてコインランドリーのオーナーとなったが、経営は苦しい。どうにかしてビジネスを成立させようとやっきになるイーヴリンは、夫にたいしても、娘のジョイにたいしても、聞く耳を持たない。夫は離婚を考えているし、ガールフレンドのことを本能的に拒絶する母にたいして娘は反抗し、泣き崩れる。春節を前にして、ボケ始めているイーヴリンの父ゴンゴンがはるばる飛行機を乘ってやって来ているが、彼の看護は家族関係をますます難しいものにするばかりである。価値観の古い祖父に同性愛のことなど説明できないと決めてかかる母は、娘が連れてきた女友達のことをはぐらかすことしかできない。

そこに、別の現実の問題が交錯する。国税庁にたくさんの領収書を持ち込んで税額控除を受けようとするが、役人は書類の不備をあげつらう。

ここにあるのは、中流から転落しかかっているばかりか、家族自体が崩壊しかかっている、リアルな現実がある。

しかし、別の宇宙のイーヴリンには別の生を生きている。カンフーの達人になって映画スターになっていたり、シェフになっていたり、指がソーセージの世界で女性と付き合っていたり、父をマネージャーとする歌姫になっていたり。この宇宙ではかなえられなかった幸福な可能性が、ほかの宇宙では実現されている。

アルファ・ヴァースのウェイモンドは、アルファ・ヴァースのゴンゴンの指揮のもと、すべてのヴァースの存続を脅かし、すべてをカオスに至らせようとするジョブ・チュパキを倒すことができるイーヴリンを求めて、さまざまなヴァースへとジャンプをしていたのだった。

国税庁がいきなりマルチヴァースをめぐる戦場となり、イーヴリンはいきなりその戦いに引き入れられる。その訳の分からない巻き込まれ感を、スピードあふれる映像が演出していく。

 

『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』において、ジョブ・チュパキの正体はジョイであるが、彼女がそのような存在になってしまったのは、イーヴリンがジョイの能力を開花させようと実験をしすぎたけっか、彼女の精神が断片化し、さまざまなヴァースに飛び散ってしまったからだった。すべてのヴァースに同時に存在することは、すべての可能性を実現できることかもしれないが、すべてがどうでもよくなってしまうことでもある。すべてが可能なら、何かが何かより重要ということもなくなる。すべては同価値であり、したがって、すべては等しく無価値である、というように。

そのような虚無的な存在であるジョイを倒すということは、それとは別の価値観を抱擁することになるだろう。いまここのみじめな生、可能性がかなえられなかった生を愛することであり、ほかの可能性を選んでいたら――たとえば駆け落ちせずに両親のもとにとどまったら、ウェイモンドと結婚しなかったら――ありえたかもしれない生を望まないことである。

マルチヴァースをめぐる物語は、こうして、マルチヴァースが開いた可能性をあえて閉ざすようにして幕を閉じる。SF的に宇宙規模で繰り広げられた親子喧嘩は、むしろ、きわめて親密な、彼女の家族が暮らしてきたコインランドリーという「家」において、和解を迎える。

 

というような物語だったのだと思うのだけれど、正直、見ているあいだはよくわからない映画という印象がずっと付きまとっていた。映像がわりとやかましいので(音量的な意味では、視覚情報的な意味で)、ごちゃごちゃした感じがあるからだろう。

とりたてて説明するようなタイプの映画でもないので、いまひとつプロットがや世界設定がわからないように感じられる部分もある。

SF的なギミックとして用いられる小道具がわりとオールディーな感じがする。たとえば、アルファ・ヴァースのウェイモンドは1980年代や90年代のSFにありそうな、ピカピカ光る電球がついた重量級のヘッドギアをしているし、用いられている電子機器は20世紀的な感じで、システムはMS-DOS的な感じがする。これはもちろん、過去のSF映画にたいするオマージュのようなものだとは思うけれど。

 

全編をとおして、アジア系の俳優がメインキャラクターであるというのは、ハリウッド映画としては画期的なものなのだろう。『クレイジー・リッチ』が先鞭をつけてはいるけれど、こちらでは、最後のクレジットに主演俳優たちの名前がアルファベットと漢字の両方で表記されており、これがアジア系アメリカ人の作品であることを力強く表明していたことは見逃すべきではないだろう。

 

ともあれ、面白い映画だったのかといわれると、微妙。映画自体が悪かったというよりも、期待していたものとずいぶん違っていたからという理由が大きい。壮大なSF物語だと思っていたので、アメリカにおける中国系移民たちの物語という社会的文脈で展開される家族物語をSFというジャンルで調理したという作りが、あまりにも肩透かしだったのだ。

 

 

ごちゃごちゃ書きながら、なぜ家族の問題をここまで壮大なSF的道具立てで、バカっぽいほどのB級映画テイストで描いたのだろうかと考えていたのだけれど、もしかすると、そのような脱線をすることによってしか、わたしたちはこの問題に正面から向き合い、根本から問題をほどいていくことができないからかもしれない。

イーヴリンも、ウェイモンドも、ジョイも、相手が憎いわけではない。イーヴリンは夫や娘を邪険に扱ってしまうが、それは彼女がコインランドリーをどうにか経営していくことに精一杯で、周りが見えなくなっているからだ。ウェイモンドはイーヴリンのためを思っていろいろ先回りして手を貸すが、その手助けはどこかピントがずれている。ジョイはパートナーのベッキーを母に認めてもらおうとするが、すでにどこか諦めているきらいがある。

誰もが相手のことを思ってはいる。かつては幸福な暮らしがあったし、その可能性はいまもまだ完全になくなってはいない。しかし、さまざまなものがどうしようもないところまですれ違い、もうどうにもできなくなっている。だから、この現実でこの先ありえるのは、ウェイモンドとジョイがイーヴリンから去っていく未来だけだろう。

そのようなバッドエンドを回避するために、別のヴァースからの介入というような荒唐無稽な脱線が要求されたのではないかという気がする。

その意味で、ここで興味深いのは、さまざまな可能性がありえるし、過去にさかのぼることもできるという設定をしておきながら、問題がまだ起こっていない世界にさかのぼることではなく、すでに問題が起こってしまっているこの世界をどうにかすることとキャラクターたちが向き合うことをコアに持ってきたところだ。問題をなくすことではなく、問題を解きほぐし、行き止まりを突き崩し、前に進んでいくための道を作り出していくところだ。そこに何かとてもポジティヴな力があったような気がする。

 

でも、この映画は、そういうことはひとまず脇に置いて、壮大に荒唐無稽な、素晴らしく馬鹿々々しいB級映画と誉めておくのが、いちばんいいのだと思う。