2月23日は「富(2)士(2)山(3)」の日。最初に制定したのは山梨県の富士河口湖町。2001年のことだった。その大元にあったのは1998年に静岡県と山梨県が共同で作成した富士山憲章だが、両県で2月23日が富士山の日と条例で定められるまでには、10年以上かかっている(静岡では2009年、山梨では2011年)。
「「富士山の日」フェスタ2023」は、富士山世界文化遺産登録10周年記念を祝うとともに、静岡県の「東アジア文化都市宣言」、山梨県の「富士五湖自然首都圏フォーラム」の概要説明を詰め込んだ、雑多な催し物である(なぜここでイタリア語の festa が出てくるのかは謎だ)。
基本的に内輪のイベントであり、両県関係者、議員や役人、それから、来賓として招かれた国政レベルの政治家などが主だが、100人だったか、一般参加者を募っていたので興味本位で応募したところ、希望が通ったので、行くことにした。SPACがふじのくに世界演劇祭のメイン演目の配役レベルの豪華メンバーで『羽衣』をやるというのが申し込んだ一番の理由だが、もしかすると、政治的な茶番のスペクタクルを一度くらい見ておきたいという理由も少なからずあったのかもしれない。
まったく没趣味的なイベントだった。面白味のかけらもない黒かグレーのスーツをまとった中年以上の男たちが会場の大半を占めている。かと思うと、バスケットボールのコートが2面はとれそうな会場の壁際には、同じように黒いスーツをまとった若手の男女が立ち尽くしている。撮影をしているプレスはわかるが、そういうわけでもなく壁にへばりついているのは何のためなのだろう。
ウェルカムミュージックの一曲目が、唱歌「富士の山」を弦楽四重奏にアレンジしたものだったのは、イベントの性格を考えれば妥当なところ。しかし二曲目はモーツァルトのティヴェルティメントK. 136(とアナウンスされたが、実際は1楽章のみ)。いかにも「クラシック音楽」な選曲で、会場の文化的な教養レベルを露呈するばかりである。
開会のあいさつとして、静岡山梨両県の県知事と県議会議長からのお言葉がある。フラットな抑揚、間のない朗読。内容もさることながら、話し方に力がない。司会進行を務めるプロのアナウンサーの人為的な声の明るさと滑舌の良さと比べると、県の政治家たちの操る言葉の弱さが浮き彫りになる。そのなかで最も雄弁だったのは、手話通訳者2人であった。
このような式典を見るのは、いったい何年振りだろう。だからなのか、スピーチするために舞台に上がり、檀上に向かって一礼するのが滑稽に見えて仕方ない。彼らはいったい何にたいして礼をつくしているのか。
「本日はおめでとうございます」という決まり文句も奇妙に響いてしかたない。何がそこで言祝がれているのだろう。
スピーチが終わるたびに、係の者がマイクに向かって足早に開けていき、左手で軽くカバーするようにして、マイク上部にプシュッとスプレーをかける。毎回毎回、機械的に。無表情ないかめしさで。見事なコント。
政治家にとってヒエラルキーが重要なのは、このような式典において、それが顕在化するからだろうか。名前を呼び上げる順番は、役職の上下と厳密に呼応しているようである。
茶番劇なスペクタクルのクライマックスのひとつは、くす玉を割るセレモニー。8人ぐらいの大の大人がアナウンサーの言葉に従って一斉に紐を引っ張る。最も位の高いお偉方であるはずの者たちが、まるでお遊戯会の出し物を演じる幼児が先生の指示に従って動くように、単なる司会進行役のキューに従順にしたがうのが、なんとも滑稽。そしてそれではまだ滑稽さが足りないかとでもいうように、アナウンサーの声に従って、檀上のお偉方は左に、右に、正面にと視線をやり、写真撮影のための被写体となる。操られる人形にすぎない存在に成り下がる。
「東アジア文化都市2023静岡県宣言」は、日本語が酷すぎてお話にならない。誰が書いたのかは知れないが、あれはない。「PR動画」はふんだんに金がかかっており、なかなか見ごたえがあるものの、ところどころテロップの白抜き文字が見えない。「東アジア文化都市」を目指していながら、PR動画に出てくる「外国人」がおおむね白人(だったはず)なのはどういうことか(これらの問題点を指摘する人間がいなかったことが驚きだ)。
静岡県側の言説はどこかナルシスティックで、富士山の文化的意義や美学的価値をひたすら称揚するばかり。山梨県側の言説はずっとアクチュアル。社会問題としての/でもある環境問題と向き合いながら、COVID以降の社会情勢を踏まえつつ、普遍的価値観にもとづいた具体的な未来(「自然首都圏」という用語はいまひとつわからなかったが、首都圏のワーケーションを目指し、あわよくば首都圏の機能をも取り込もうという感じだろうか)を描こうとしているようにも見えた。とはいえ、具体的に実現段階に入っているのは、ふわっとした感じの静岡県のほうで、プレゼン映えのする山梨県のプランのほうはまだ絵に描いた餅という印象。
山梨県の資料でも、見づらい白抜きの文字が散見された。公務員の共通の趣味なのだろうか。
SPACの『羽衣』は10分ほどの小品。三保の松原が舞台。天女の羽衣を見つけた地元漁師は、家に持ち帰って家宝にしようとするものの、それがないと天に帰ることができないと懇願する天女に心を打たれて、衣を返す決心を固める。その見返りに舞いを見せてくれと頼むと、天女は羽衣がなければ舞うことができないと反論する。自分から羽衣を騙し取ろうとしているのではと疑う漁師だが、天人は嘘などつかないという天女の言葉に恥じ入り、羽衣を返すと、天女は約束どおり舞を舞い、天に昇っていく。というお話。
SPACお得意の混交的なスタイル。衣装は日本の着物のようでありながら、東アジアの民族衣装のようでもある。日本のものにしては明度の高い青や緑や赤や黄が混ざっており、大柄の模様はアフリカの布をさえ思わせる。
能が基調にあるようだ。男声と女声に別れた謡いと、音楽を担当する囃子がいる。下手に縦に並んだ男性陣と、上手側に横に並んだ女性陣は、ときに切れ切れに、ときにユニゾンで、字の文を語ってゆくが、それは物語を伝えるためというよりも、朗誦それ自体を音楽とするためだ。言葉の意味ではなく、声の調子が、この世ならざるエーテル感、不穏さや不安を、ダイレクトに表象していく。
地元漁師が狂言回し的な役割であり、意図的に現代語を取り入れ、すこしお笑い的に、観客の笑いを誘うような演技を繰り広げていく。彼がワキだとすれば、天女がシテであり、彼女はシリアスなキャラクターであり、語ることはない。彼女の言葉は背後の女声たちが代弁するだろう。
床に敷かれた白布を男性陣が上下に揺すると、白波になる。そのなかで天女は白く軽い大きな衣をまとって旋回する。『マハーバーラタ』や『アンティゴネー』を思わせる民族音楽的な音階が、鈴や太鼓の作り出す雅楽的なリズムや、鍵盤ハーモニカの作り出す雅楽的なハーモニーに移行し、そこに、不協和音すれすれの女声の合唱が加わり、天上の雰囲気が演出されていく。
祝祭的に盛り上がって終わるのかと思いきや、舞い終わった天女は静かに静かに退場していく。これがイベントの終わりではないことをわきまえた、見せ場を次に譲る、控え目のパフォーマンスだったように思う。
トリを務めるのは、「ふじのくに特別観光大使」を務める参議院議員の橋本聖子であり、彼女の基調講演は「富士の国からスポーツ文化を世界に」と題されていたものの、基本的に自伝的語りでしかなかった。
おそらくもう何十回、何百回と語った持ちネタなのだと思うのだけれど、長崎原爆の日に生まれた最終聖火ランナーを東京オリンピックで目の当たりにした父が聖火にちなんで聖子と名付けた話、さまざまな病をくぐりぬけ、当時としては最先端であったメンタルトレーニングやスポーツ医学の助けを借りて、オリンピック選手として名を成したという話、ワールドクラスのスポーツがさまざまな産業を巻き込む一大文化であることを目の当たりにして、それを日本に導入するために邁進してきたという話、その延長線上の仕事としての2022東京オリンピックの話、それらすべてのレガシーとして今後やっていかなければならないことについての話が、予定時間よりもオーバーして延々と続く。
にもかかわらず、聞かされてしまう。話に引き込まれてしまう。彼女がどのようにしてこの話芸を身に着けたのかはわからないけれど、静岡山梨の県知事や県議会議長に比べると、格の違いは歴然としている。彼女の聴衆にたいする語りかけはきわめて巧みであり、活舌にしても、抑揚にしても、まったく立派なものである。包括的なプロジェクトとしてのスポーツ—―アスリート本人だけではなく、アスリートを支える医学や産業、それらをサポートする公的機関や国家まで含めた社会的環境―—にかける彼女の情熱をどのように評価するかは聞き手次第ではあるけれども、この熱のこもった語りを聞かされてしまうと、彼女の真摯さを疑うことは難しい。
とはいえ、彼女の45分近くに及んだ演説は、演題とはほとんど関係のない、自分自身のための選挙演説のようなものでもあれば、2022東京オリンピックの自己正当化の演説でもあり、なんとも身勝手なものであった。たしかに最後5分では、それまでの自分語りをこのイベントの枠にはめるべく、最低限の配慮はしていたものの、彼女の演説がこの機会のために書かれたものでないことは歴然としていた。その意味で、まったく不誠実なものであったように思う(記念式典における政治家の語りなど所詮そのようなものでしかないのかもしれないけれど)。