うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230527 『ター』を観る。

2010年代後半のMe Too運動は、社会の空気を変えた。沈黙することを余儀なくされてきた声がついに語り出し、耳を傾けられるようになった。それはおそらく、ソーシャルメディアの隆盛と表裏一体の出来事である。被害者たちが声を上げ、広げ、つなげていくための言説空間があったからこそ、社会運動に発展していったのだった。

 

そこにいたるまでの前史は当然ある。1960年代以降のフェミニズムの隆盛であり、とりわけ1980年代以降のカルチュラルスタディーズによる、西欧文化や価値観の問い直しである。それによってもたらされたのは、白人男性を頂点とし、女性や非白人を周縁化し、下位に位置付けるような世界観の転覆とまではいかないにせよ、構造的な再検討であり、多様性を言祝ぎ、わたしたちひとりひとりの特異性=シンギュラリティを言い訳も後ろめたさもなく抱擁するという流れである。伝統的に男性の領域だと思われていたところに女性が進出していけるようになったのは、そのような大きな潮流の変化あってのことだろう。

しかし、そのような全面的な民主化にしても、下からの告発の一般化にしても、ソーシャルメディアの承認文化と相まって、ネガティヴなインパクトをもたらしてもいる。傷ついた個人の自己喧伝、というのは言い過ぎかもしれないけれど、個人が傷ついたといえばそれはすべてケアされなければならないという原理主義的な包摂のメンタリティであり、その裏返しである、いつかどこかで告発されるかもしれないという怖れの普遍化。

わたしたちはいまや、違ったかたちの抑圧——白人男性的価値観がそれ以外のものを抑圧するのではなく、メインストリームに近すぎる自分よりも周縁的なところにいる人々から糾弾されるのではないかという怖れがもたらす抑圧——のなかを生きている。それはもしかすると、無意識的な牢獄状態と言うべきものかもしれない。

 

『ター』が描き出すのはそのような2010年代以降の社会文化の光と影の両面だ。

学者にして作曲家にして指揮者であり、同性愛者であるリディア・ターは、順調にキャリアを築き、いまやベルリンのオーケストラの常任指揮者の地位を獲得し、マーラー・チクルスの録音は残すところあと5番のみ。自著の出版を目前に控えている。ベルリンでは、パートーナーであるオーケストラのコンサートミストレスとその娘と親密な暮らしを営む一方で、別に部屋を借りて作曲に勤しみ、プロモーションや教育活動のためにアメリカに飛ぶという忙しい毎日を過ごしている。すべては順風満帆に見える。

 

しかし、そのような華々しいキャリアの裏では、いくつかの問題が渦巻いている。

ひとつは、彼女のかつての教え子である若き女性指揮者との確執。人間関係と職業関係がないまぜになったもので、どうやらリディアは彼女のキャリアを閉ざすようなパワハラを犯していたようである。

もうひとつは、アメリカの音楽院での指揮科のクラスにおける学生との行き違い。アセクシャル(だったと思うが)だという学生がバッハを女性軽視との理由で拒否すると、ターは、作曲家その人のジェンダー的な問題性と作品そのものの芸術的な価値を混同することを批判し、アイデンティティ・ポリティクスを乗り越えなければならないと挑発するが、それはかなり挑発的な言葉でなされるがゆえに、パワハラめいた過剰さに転化し、学生は捨て台詞を残して教室を去る。

同僚指揮者とのさや当てもある。彼はリディアの指揮する音楽の秘密を探り当て、自分の音楽作りにも活かしたいと思うが、冷たくあしらわれる。

副指揮者の人事をめぐる確執もある。解任されることになる男性指揮者は狼狽する。副指揮者に昇進できるかもしれないという望みがあればこそ、かなり苛酷な要求にもにこやかに応えていて女性アシスタントは、自身が選ばれなかったことを知らされて、突如として姿を消す。

そこにさらなる問題がかぶさってくる。家庭生活においては、パートナーに自身の悩みを告白できていないようである。子どもは学校でいじめを受けているらしい。

同性愛者であることが招き寄せる別の火種もある。オーケストラのオーディションで仮採用されたロシア出身の女性チェロ奏者との関係は、職業的なものから、個人的な情事に移行していく。

 

『ター』が描き出すのは彼女の転落であることはまちがいない。しかし、その転落がどのようにしてもたらされたのか、いまひとつ判然としない。それはおそらく、この映画が意図的に目論んだことではある。

はっきりしているのは、彼女のかつての教え子が自殺したところであり、それが裁判沙汰になったこと。指揮科のクラスでのやりとりが悪意のあるかたちで編集されてソーシャルメディアに拡散されたことである。前者についてはリディアにも咎があったはずだが、後者はあきらかに言いがかりだ。しかしながら、ソーシャルメディアにおいては、炎上させられたほうが負けなのであり、告発されたという事実は、つねにすでに、有罪判決に近い。

それと並行するようにして、彼女が受けていた暗然たる脅迫のようなものがあった。特徴的な文様が記された書籍が彼女のもとに送り届けられ、書斎のメトロノームにもそれが書き込まれていたりする。

彼女が個人的な関係を切り結んでいったロシア出身のチェロ奏者の住まい——それは彼女がパートナーと暮らすファッショナブルな住まいとも、仕事部屋とも一線を画する、暗く汚くみすぼらしいスペースであり、地下水がたまっているかのような地下室の暗い通路は、まるで社会の暗部の隠喩であるかのように、不気味な声が反響するホラー的な空間である——で、彼女は姿の見えない誰かに追いかけられ、顔に大きな怪我を負うことになる。しかし、それがはたして彼女の強迫観念が生み出した幻だったのか、それとも、本当にそのような脅迫者がいたのかは、決してわからないままである。

 

『ター』が近年の告発文化、アイデンティティ・ポリティクスによる西欧文化の過剰なまでの批判的再考にたいして、ある種の皮肉な視線を投げかけていることは間違いない。しかしながら、この映画がそのような問題にたいする何かしらの解決策を提示しているわけでもないのである。わたしたちはこの映画のなかに、現在の「ハイカルチャー」たるクラシック音楽業界のさまざまな問題を見るだろう。それらがなぜ、どのように問題なのかを、わたしたちは理解するだろう。しかしながら、それらの問題をどうしたらいいのかについてのヒントさえも、この映画はわたしたちに垣間見させてくれないように思う。そこに『ター』の居心地の悪さがある。

 

付記1

西欧クラシック界において転落した彼女が指揮者としてのキャリアを再興しようとしたとき、再出発の地として選ばれるのがアジアの国(タイ?)だというのは、微妙に差別的な感じもするが、しかしまさにこの差別性こそ、現代世界のリアルでもある。

 

付記2

ウクライナ侵攻は親プーチン派の音楽家に踏み絵を強いることになった。ゲルギエフプーチンを糾弾することを拒否し、西欧世界からボイコットされた。と思ったのだが、YouTubeのサジェッションで出てきた動画で、ゲルギエフが中国のオケを振っているのを見た。これは『ター』のリアリティの証明であるように思われた。

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