アーノンクールの演奏を聴くと、目をぎょろつかせた、何かに烈しく怒っている顔が頭に浮かぶ。しかしその顔をしばらく見つめていると、その憤激の裏に奇妙なユーモアがあることにも気づかされる。あまりに生真面目で、あまりに真剣なので、とても笑顔とは言いがたいのだけれど、にもかかわらず、やはり愉悦としかいいようのない純粋な歓びが、表層的な不機嫌さの向こうから噴き出してくる。
ウィーン交響楽団のチェロ奏者として演奏家のキャリアをスタートさせたアーノンクールの指揮は決して上手いものではない。両方の人差し指を突き出しながら拍を大雑把に示す。
震えるような身振りは、数学的な正確さとは程遠い。しかし、アーノンクールの目指す音楽は、デジタルな精度とは無関係なところにある。かなりどぎついアタックを好むけれども、それはあくまで呼吸のレベルでのことであって、実際に出てくる音のレベルではないようなところがある。いや、もちろん、アーノンクールが音自体を軽視しているわけではないけれども、彼の関心は、音そのものというよりは、音を出す奏者の身体や精神に向かっているように思う。
そう書いていて、なぜかふと、学部時代に受講した能についての授業で、担当教員に、能の笛や太鼓の音のズレが西欧音楽のアンサンブルに慣れ親しんでいる身からするとすごく気になると言ったところ、能の演奏は呼吸で合わせるから、というようなことを言われたことが思い出された。もしかするとアーノンクールの音楽もそういうものなのかもしれない。
最終的な音は結果にすぎなくて、重要なのは、そこに至る過程。過程を徹底できれば、最終的な音のズレは些事である。
そういうことなのかもしれない。
アーノンクールは、洗練された粗野を求めているのだろう。古典的な西欧美学は、荒々しい生の力を、技術によって陶冶するというものであり、洗練こそが美ではなかったか。
アーノンクールはそれを意図的に覆す。
意図的に洗練を退け、洗練されるべきであった素材の生命力を加工なしに表出させようとする。正確さを忌避しているわけではないけれど、過剰な正確さは人為の現れにほかならない。
アーノンクールの音楽はおそらくきわめて身振り的であり、言語的なものなのだ。
フレーズのアーティキュレーションこそがアーノンクールの音楽を形づくる。響きでも、リズムでもなく、ディクションをこそ、統一させようとする。
言葉としての、言い回しとしての音楽。ディクションはアナログ的なものであるので、どうしても個々の奏者のシンギュラーな差異もそこでは音に出てしまうので、アーノンクールのアンサンブルにはつねに雑味がある。
どこか奇矯な音楽だ。生理的に気持ちよいところをあえて外してくる。なめらかさを拒否するくせに、わざとズラしてくるわけではない。学究的であるのに、理性的なものに安住しない。頭でっかちなところがあるのに、究極的には、身体的な勘を信頼している。しかし、生々しさを尊ぶくせに、媒介なしの生そのものは拒否する。それはきわめて狭いストライクゾーンであり、ハイコンテクストにすぎる音楽でもある。
デリダやド・マンの脱構築が、「脱」すべき「構築」のないところでは成立しないように、アーノンクールの人為的不自然さの美学は、彼が自らを差異化しようとしてする仮想敵の存在が共有されていないところでは、ただ単に、奇妙なようにしか聞こえないのではないか。
アーノンクールの音楽はパフォーマンスなのだと思う。受容者の存在はここで決定的である。彼の音楽は、一方的に聞くものではなく、双方向的に見聞きして体験すべきものである。アーノンクールの音楽にとって、彼の不機嫌な歓喜の表情は、本質的なものであるように思えてならない。