うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230816 Amazon Primeで『水星の魔女』シーズン1のながら視聴終了。

というわけでかなり適当に最後まで見た。見ながら思ったのは、これは『逆シャア』を遡及的に説明する物語ではないかということ。

 
逆シャア』の大きな謎は、地球に落下しそうになったアクシズを押し返そうとするアムロにほかの機体も加わっていったとき、なぜガンダムサイコフレームが共振を起こすことができたのか、なぜほかの機体とともにアクシズを押し返すことができてしまったのかという点。

ガンダムが80年代90年代の物語だと痛感させられるのは、ここに色濃く表れているオカルトであり、エスパー的なもの、とくにテレパシーだ。ここが同時代の作品にして、ガンダムと同じく、同じ世界観のなかで正史が遡及的に創作されていったマクロスシリーズとは一線を画するところだろう。

逆に言えば、ガンダムマクロスを同じ時代に始まった物語と感じさせるところは、両者に現れる体制転覆的な空気であったり、国家にたいする反抗であったり、複数の対抗勢力のあいだの抗争。集団内の内ゲバであり、裏切りやスパイ。要するに、60年代の学生運動の反映であり、それはさらに言えば、西と東の対立という大きな物語、資本主義=民主主義と共産主義イデオロギー対立の反映ということになるだろう。

 
『水星の魔女』のシーズン1前半は学園物語仕立てで、政治的な問題、政府と企業の対立であるとか、企業間の競争のようなものが、いわば学校内における力関係と、友人関係や敵対関係と、好きや嫌い、気に入る気に食わないといった心理と混ざり合ってしまっていたように思う。妙にうじうじした主人公キャラが、本当は政治的なもの、社会的なものである対立関係を、プライベートな方向に引き寄せてしまっていたようにも思う。

シーズン1前半最終話は、ガンダム物語のテンプレートにしたがって白兵戦的な展開だったが、そこであまりにも救いのないかたちで、次々と人が殺されていった。シーズン1後半はそのような意図せずしてなされた、または、心ならずも犯してしまった殺人と向き合う贖罪の物語であり、スパイや裏切りを打ち明けることができなかった友人たちとの気まずさのなかで過ごす時間の物語。だから物語は終始暗い。

 

おそらくシーズン1後半で語られるもっとも大きな秘密は、主人公が実はクローンチャイルドであり、母が本当に愛しているのは、ガンダムのなかにデータ体として移植した実の娘だという暴露。それがあまりにも淡々と主人公の口から仲間たちの前で語られるので、見ている方としては逆に肩透かし感がある。

だがこうして、娘と父の確執の物語——娘を思っていないわけではないが本心を語ることはない父と、母をないがしろにした父の本心を理解しようともせず一方的に反発を繰り返すだけの娘はすれ違うばかりの物語——であったシーズン1前半が様変わりする。シーズン1後半の物語の縦軸は娘と母の物語となる。

ミオリネは亡き母がトマトの遺伝子に書き込んだ暗号から、母に愛されていたことを知るだろう。母が望むように、母が命じるままに生きてきたスレッダは、母に逆らい、母も、もうひとりの娘——遺伝子的には双子であり、生年的には姉であり、現時点では妹とも言うべき存在——もともに救おうとするだろう。

 

その流れで明らかになっていくのは、ガンダムとは操縦者が膨大なデータを我が身に引き受けることであり、その過程でオーバーフローが起こると、精神が焼き切れてしまうということ。こう言ってみてもいい。ファースト以来、ニュータイプのテレパシーとみなされてきたものは、世界に充ちているデータの奔流、本来なら感じることも、ましてや操ることなどできるはずもないものに、介入できてしまう能力なのだ、と。

ここでニュータイプのテレパシー能力が分節化されているように見える。一方において、相手の考えていくことを察知する能力、インプット型、受信型の能力がある。そして他方に、相手のデータに割り込む能力、アウトプット型、送信型の能力がある。
『水星の魔女』のシーズン1後半でクローズアップされていくのは後者の能力であり、それこそ、『逆シャア』の最後でアムロが発現させたものにほかならない。

 

しかしこのアイディアは、現代のデジタル文化とネットカルチャーにおいて、スッと腑に落ちるものだ。というのも、相手のコントロールを奪うというのは、ハッキングを思わせる行為であり、相手のシステムをオーバライド(上書き)するというのも、ハッキングして相手側の管理者権限を簒奪する行為だから。

この意味で、『水星の魔女』は80年代90年代のオカルト主題を、2020年代におけるデジタル=ネットの文脈においてアップデートしてみせた物語であると言ってよいのではないだろうか。その結果、『水星の魔女』からオカルト色はほとんど払拭されたのではないだろうか。『Zガンダム』あたりから用いられるようになる死者の召喚だが、『水星の魔女』で呼び覚まされるのは死者の霊魂というような超自然的なものではなく、データとしての死者である。

 

ガンダムが果たしてこれまで父子の物語だったのかどうかは、いまひとつよくわからないし、『水星の魔女』がそれを母娘の物語にシフトさせて言い切っていいのかは、ますますわからない。

ファーストでは、アムロの父は精神に錯乱を起こして哀れにも命を落とすし、息子が戦争に行くことをよく思わない母とは離反するばかりだ。ここには、たとえばブライトという父的存在がおり、孤児たちという子的な存在がいるものの、物語の力学は必ずしも垂直的なラインを描かない。偉大な父を暗殺され、幽閉された母を亡くしたシャアにしても、父の同志にして暗殺の黒幕であったらしい別の父的な存在へと復讐を募らせ続けるわけではない。

ガンダムの物語がある種の復讐物語であることは否定できないだろう。しかしながら、ここで復讐は元凶から逸れていく。復讐のエネルギーは、最初に引き金を引いた人間に戻っては行かない。ニュータイプのほうに興味を惹かれていくシャアのように。

だから『水星の魔女』でも、ミオリネの父にたいする憤りも、スレッダの母にたいする複雑な思いも、直接にぶつけられるのではなく、未来志向のプロジェクトへと振り返られていく。

 

『水星の魔女』のシーズン1前半が、ガンダム技術の医療転用という、軍事物語らしからぬ平和的な筋書きであった一方、シーズン1後半はその不可能性が明らかになっていく物語であった。学生たちの理想主義的な思いは、宇宙と地球の根深い確執によって、軍産複合体の思惑によって、ことごとく裏切られていく。

だからこの物語の結末が、世界の革命というような大きな物語ではなく、スレッダが母と地球で学校を作るという小さな物語に着地するのは無理もないところではあるが、どこか残念な感じもする。もちろん最初のユートピア的な理念は最後まで残るし、それはきっと物語が終わってもこの世界で続いてくのだろう。けれども、物語の結末はきわめてドメスティックですらある。家族の物語という結末。

そう考えていくと、スレッダとミオリネという同性愛カップルが成就したのかどうかは、あくまでキャラに主眼において物語を味わう場合にのみ重要なポイントであって、物語世界の構造を愉しもうとする層からすると、それほど大事にするものであるようにも感じない。遺伝子工学が現実世界よりもはるかに進んでいるらしいこの物語世界において、カップルの性別はもはや問題にならないようにも思われるところ。というよりも、この物語世界で人々を分断するのは、性別ではなく、出自(宇宙生まれか、地球生まれか)であり、経済階級であり、党派(誰につくか、誰に味方し誰に敵対するか)であるように見えるから。

 

というわけで、楽しめたような、楽しめなかったような。

作画は怖ろしくレベルが高く、不満を感じる瞬間はなかった。エンディングでは原画担当が大量にクレジットされていから、これは人海戦術の成せる業であり、それはつまり、資金力ということなのかという気もする。この作画レベルあっての物語だったということも否定はできない。けれども、アニメとは、安定した作画を見せるものでもあるまいという気はする。静止画や動画の美しさはあくまで手段であって目的ではないはずだか。