うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。State の家性?

翻訳語考。なぜ state は国家なのだろう。なぜ「家」が入るのだろう。明治近代の造語なのかと思ってコトバンクで検索してみたところ、実は古来からある単語だった。「精選版 日本国語大辞典」が引く一番古い例は十七箇条憲法(604)。「百姓有レ礼。国家自治」。

Wikitionary によれば、「国家」は中国語起源である。もともとは、「古代中国における、諸侯の国と卿大夫が治める家(封建領土)の組み合わせ」のことであり、「天子の治める天下の対概念で孟子等に見られる」とのこと。それが、明治近代において、state の訳語として流用されたようだ。

英語の state には、すくなくとも字義的なレベルでは、「家」のニュアンスはない。「状態」の意味はあるし、「身分」のような意味もあるけれど、それは「家」という具体的で限定的なカテゴリーとは直接的に結びつかない。

こう言ってみてもいい。State を「国家」とすると、無意識レベルで、「家」から連想される人情性や、家父長制の残響が出てしまうのではないか。State を「国家」とすると、state のある種の非人称性——装置、機構――の側面が、どこかミュートされてしまうのではないか。もしかすると、「国家」のウェットさは、「愛国主義/心 patriotism」の語根にある patr(フランス語なら patrieで「祖国」)に近いのではないか。

(と書きながら、patr は 語源的に「父」のことなのに、リーダーズが patrial に「母国の」というジェンダー的に捻じれた訳語を当てていることに気づいた。というより、英語の patriot に見え隠れする男性性が、日本語の「愛国者」では見えなくなっていると言うべきだろうか。)

かといって、「国」では足りない気もするところ。

教科書的な理解に従えば、state は、領土と、人々と、統治機構を持つ。「国」だと、地理的な側面は捉えられるけれど、他の二つが抜け落ちてしまう気がする。それに、「国」は country の訳語としてキープしておきたい。Country は「田舎」の意味もあれば、「祖国」のような意味でもある。それはおそらく、生きられた経験(か、すくなくともその仮想的代替物であるような想像の物語)をとおして内面化される生々しいものであり、だからこそ、ノスタルジーの対象にもなれば、愛すべき対象にもなるのだろう。Country と patrie は地続きであるはずだ。

とは言え、わたしたちは果たして現在、「国家 state」を前提とすることなく、「国 country」をイメージできるのだろうか。さらに言えば、「国民」という言葉を「国家」抜きにイメージできるのだろうか。

そこから、nation をどう訳すべきなのかという難問が立ち上がってくる。リーダーズが最初に掲げる定義は「国民; 国家, 民族国家; 民族」。しかし、この語の語根にある nat は「生まれ」という意味であり、native のような単語と地続き。Nation は「誰から」「どこで」生まれたのかという問題と切り離せないのであり、だからこそ「国籍 nationality」は、出生地主義血統主義に二分されるのだろう。Nation は、先にあげた三要件のうち、「領土」と「人々」にかかわるものである。

にもかかわらず、現在「国籍」を決めているのは、政治組織としての「国家」の権力ではないだろうか。

時間的に考えれば、「国民 nation」が「国家 state」に先行する。「国家」は「想像の共同体」という壮大なフィクションであったはずだ。なのに、150年以上に及ぶ虚構の反復の結果、両者がどうしようもなく混ざり合ってしまっているように思う。

「国 country」が空間的=情緒的=文化的なものだとすれば、「国家 state」は政治的なもの、「国民 nation」は社会的なものだろう。本来なら、社会的なものである「国民」は「国」に近いはずなのに、それが「国家」に引き寄せられすぎているのではないか。

Nation の訳しにくさに連動して、people の訳語の問題がある。これを「人民」とすると、どうしても、「中華人民共和国」のような既存の成句に引きずられてしまう気がする。単体で訳すなら「民衆」でよいかもしれないけれど、ある「領土 territory」内の集団を指す言葉の訳語としては、空間的なニュアンスが薄まりすぎる気もするところ。でも「民」では座りが悪い。

というわけで、暫定的な結論。「国家」を脱家化しなければならない、その普遍的な機能を情緒的な側面から切り離して論じるために。「国民」を脱国家化しなければならない、「民」が先にあって「家」はその事後的な手段でしかないことを明らかにするために。