うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「外国人 foreigner」という言葉の問題性。

特任講師観察記断章。学生たちが時折イノセントに使う「外国人 foreigner」という言葉が気になって仕方ない。記述のために使っているのであって、否定的含意を持ちうる用語として使っているのでないのはわかる。しかし、foreignと名指した時点で、そこに、ある種の排他的なニュアンスが話者の意図とは無関係にただよってしまうようにも思う。フランス語なら、foreignはétranger。英語に戻せばstrange/stranger。

もしかすると、「外国人」の「国」に個人的に引っかかっているのかもしれない。「外国/人(外国の人)」とするのであれ、「外/国人(日本国の外の人)」であれ、ここでは「国」というカテゴリーが暗黙の裡に絶対視されているように感じてしまう。つまり、まずなにより「国」というフィルターをとおして他者を認識するモードに違和感がある。あくまでこの点に限って言えば、はるかに差別的な響きのする「外人」のほうがずっとましでさえある。「外人」は、すくなくとも、相手をもっとシンプルに、「人」として認識している。

しかし、この「国」は「国家 state」だろうか。どうも違う気がする。「国民 nation」のほうではないか。だとすれば、「外国人」は、「わたしたち」には属さない別の集団の人ということになる。

「外国人」と言うとき、暗黙の自明の前提となっているのは「日本人」であり、そこで学生は、何の疑いもなく自らを「日本人」と位置付けているのだろう。しかし、そうすることで、日本人/外国人という二項対立が固定されるのではないか。そして、そこで、外国人は、日本人「ではない」集団として、学生の意識のなかで固定化されることになるのではないか。

おそらく個人的な抵抗感の最大の出所は、学生が、具体的な顔や名をもった個人というよりも、「外国人というカテゴリー」を念頭に置いて「foreigner」と言っているように聞こえるところだろう。「外国人」を「日本人でない人」としてしまえば、そこでは、その人の出身(地理的な意味で)や出自(家系的な意味で)、国籍(政治的な意味で)や経緯は、二次的なものになってしまうだろう。というのも、「どこから来た」ではなく、「日本から来たのではない」が、上位に来るからだ。アメリカから来ていようが、アフリカから来ていようが、どちらも「外国人」という雑なマスターカテゴリーに一緒くたに放り込まれてしまう。

多様でユニークである個人を、斉一的な「集団的カテゴリー」というレンズをとおして認識することがデフォルトになっている人間が、「外国人との共生」を語るのは、なにかとてもピントがずれている気がする。

というような説明をいつもするのだけれど、いまひとつ納得してもらえていない気がする。