うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。ミクロなところを少しずつ。

特任講師観察記断章。今日はTOEIC学内テストの追試の試験監督をやった。とはいえ、セッティングの大半は他のスタッフがすでにやってくれていた。だから、こちらの仕事は本当にごくわずかなことだった。

たとえば、部屋に来た学生に名簿を見せて、自分の名前のところにチェックをいれるように頼むこと。名簿には、左から、学籍番号、申込日、名前、所属学科、学年、履修科目と担当教員となっていた。学籍番号がいちばん左にあることからもわかるとおり、名簿は学籍番号順にソートされていた。

学生がどうやって自分の名前を見つけだすのかと学生の視線の動きを観察していると、興味深いことに気づいた。多くの学生が学籍番号の欄を見ていないのだ。では名前の欄を見るのかというと、そうでもない。だいたいの学生が、まず所属学科を見て、次に学年を見て、それからやっと名前を探す。

少なからずの学生が自分の名前を見つけるのに失敗していた。少なからずの学生が名前探しのプロセスをやり直すはめになっていた。そして考えてしまった。この情報処理の効率の悪さはなぜなのだろうか、と。そして次にこうも考えた。いや、なぜわたしはこの手の情報処理がそれなりに効率よくできるのだろうか、と。

ここにはいくつかのステップがある。名簿全体の情報の配置=レイアウトという全体像の把握、情報の配置のされ方の原理(情報の関係づけられ方)の把握、そして、これらを踏まえ、どのような検索の仕方が自分の求める情報に最短でたどりつけるのか推測する力。

これは果たして「科目」として教えるものだろうか。プログラミングでもやっていれば、または、中学受験のようなものをくぐりぬけていれば、ある程度はシステマティックに身につけているものなのかもしれない。しかし、地方公立でずっと学んだ身からすると、この手の思考法は、学校の「なか」で学んだかもしれないし、学校の宿題を「とおして」身につけたかもしれないけれども、授業がそれを直接的に教えてくれたかというと、かなり考えてしまう。

公立教育非難はとりあえず脇に置こう。名簿から自分の名前を素早く見つけだすために、問題解決型の思考法が必要なのはいうまでもない。そしてその手の方法論は教育可能だろうし、その教育はそこまで困難ではない。しかしそれにもまして重要なのは、「クセ」とか「カン」に近いような身体の使い方だと思う。目の動かし方、手の使い方。視界の広さ狭さの調整、フォーカスの合わせ方ボヤかし方。認知のリズムやスピードと、身体の動きの呼応。五感情報と身体連動をシンクロさせること、一方によって他方を加速させたり拡大したりすること。

このほとんど生理的なレベルで大学生を教える/教え直すことは可能なのだろうか。自然化してきたものをときほぐし/unlearnし、もういちど編み直す/変えることは可能なのだろうか。

学生たちをよく見れば見るほど、本当に小さな小さなミクロなところを少しずつ手入れしていく手仕事をするしかないのだろうか、という気がしてきた。学生たちを効率的なマシーンにしたいわけではない。無意識のうちにやっていることを意識化するための手がかりや取っかかりを与えたいと思う。