うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。「人」なのか「族」なのか。

翻訳語考。「人」なのか「族」なのか。リーダーズリーダーズプラスを引くと、Aryan は「アーリア人」だが、Semite は「セム族」になる。20世紀前半のイギリスにおける人類学の重要な業績のひとつであるエドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャードの The Nuer  (1937) の邦訳タイトルは『ヌアー族』。つまり、英語の字面には「人」や「族」に相当する言葉はない。それをあえて訳し分けるのは、かなり解釈的な操作であると思うのだけれど、その根拠と正当性がよくわからない。

さらに厄介なのは、ここに、「民族」や「人種」という、近年根本から問い質されている用語が交錯してくることだ。かつての定義によれば、民族は文化的なもの(社会や歴史に起因するもの、とりわけ言語)を共有する集団であり、人種は形質的なもの(身体的なもの)を共有する集団であった。しかし、近年の生物学の知見や、文化研究の成果は、人種がけっして科学的なものではないことを明らかにしてきた。人種も民族も、すでに確定されたカテゴリーではなく、批判的に捉え直し、作り変えていかなければならないラベルである。

まだもうひとつ厄介な問題がある。「国民」という言葉だ。Nation の訳語であるけれど、「民」は「国」がなければ定義できないのかという問いを、日本語の単語は、あらかじめて封じ込めているように感じる。いや、こういった方が正確だろうか。現在、わたしたちは、「国」という言葉を、「国家 state」という概念なしに呼び覚ますことができるのだろうか、と。「日本国民」を、「日本国家の民」ではなく、「日本と呼ばれる土地に暮らす人々」というように、政治-法律的なレベル(どの「国籍」を有しているか)ではなく、日常的な生活感覚(どこでどのように暮らしているか)に繋ぎ変えることはできるだろうか。

とはいえ、「族」という言葉がただちにネガティヴな含意を帯びるということもないだろう。というよりも、「人」のほうがよくて、「族」のほうが問題だという見方自体、ある種のイデオロギーの反映にほかならないような気もする。