うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。「カリフォルニアなら未来の社会の可能性が見える」。

アメリカ観察記断章。7年半ほど前ニューヨークに行こうかカリフォルニアにしようか迷っていたとき、父は、電話での雑談的真剣なトークの中で、「東海岸には過去の社会があるがカリフォルニアなら未来の社会の可能性が見えるのではないか」というようなことを言った。それでカリフォルニアに決めたわけではないけれどーー今年1年英作文の授業でハメットとチャンドラーを教材にしてやっと思い出したけれどたぶん南カリフォルニアに決めた理由の3分の1はチャンドラーのせいだと思う、なぜ「昼間パサデナにいて夜LAに戻ってきたら肌寒かった」のかを実感としてわかりたかったのだーー先日ユニクロが入っている巨大ショッピングモールをぶらぶら歩いていてふと父の言葉を思い出した。カリフォルニアにおいて多文化主義や多民族主義は、イデオロギーとか理想ではなく、飾り気のない現実にほかならない。少し耳を澄ましてみるといい。聞こえてくるのは英語はない。それはスペイン語であり、中国語であり、韓国語であり、その他もろもろの私の無知ゆえに把握できない異質な言語だ。アメリカの公用語は英語である。しかし、現在の南カリフォルニアで、厳密な意味で英語「だけ」が使われている空間は学校の教室ではないのか、という気がしてくる。それほどにショッピングモールやストリートは多言語的世界なのだ。南カリフォルニアでアイヴズとヴァレーズを聞きながら日本語でプルーストを読んで英語でメモを取るという形態は相当な外れ値であると思うけれど、基幹言語と生物(学)的出自と実際的国籍と実務的言語がとことんズレていることが(南)カリフォルニアの常態ではないのか、というのが偽るところのない生活的実感である。日本が近い将来こうなるとは思わない。例えば自分の実家のある地方の市がそういうアモルファスでアンビギュアスな空間になることは想像できない。しかし、異なる言葉を第一言語とする人がそばに暮らしているという状況は、これからますます、スタンダードになるのではと思うし、この意味で、父の言葉は正しかったのだとひとり腑に落ちている。