うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。「丁寧に!」に相当する英語表現の不在?

アメリカ観察記断章。「丁寧に!」にぴったり相当する英語表現はどうも存在しないらしい。アメリカはいろいろなところで大雑把だ。細やかさに欠けるし、繊細さとか洗練とかという言葉を使いたいと思う場面に遭遇することは本当にまれである。もちろんこうした大味さがあるからこそアメリカはスケールが大きく自由度が高く、いい意味で流動的で、自己変革的であるのだけれど、日本的な強制的で脅迫観念的な礼儀正しさで仕込まれた身からすると、ときどきこうした適当さがどうしようもなく気に障る。今日、運転免許証の延長願書類を郵送するために郵便局に行って49セントの切手を買った。局員はそれを封筒に貼り、後ろを振り返り、封筒を箱の中に無造作に放り投げた。別の例。アメリカのスーパーではレジと袋詰めが二人一組のチームになっていて店員がすべてやってくれるけれど、たまに、商品をほとんど放り投げるようにレジに通す人がいる。好意的に解釈すればリズミカルな動きということになるが、アボガドだとかバナナとかトマトのようにぶつけられるとあとで痛んでしまうものの場合、見ていてハラハラするし、内心、かなりムッとする。アメリカの店員たちはこういう乱暴な真似を意識的に、悪意をもってやっているわけではない。たぶんこれが「悪意」のように見えるかもしれないというようなことは彼らの考えの外にあるようだ。なぜ自分はこれを何となく悪意と感じてしまうのかと今日あらためて考えてみたが、それは、日本的な呪術的=アニミズム的な土着の宗教感覚において、モノが私の一部であるからではないか、という考えに思い至った。マルセル・モースは『贈与論』のなかでポリネシア社会のおいて贈り物をするとき贈物には贈り手の一部が付与されるがゆえに贈物は一所に止まることがなく巡り巡って贈り手に返ってくるという円環的なクラのシステムに言及している。日本的文脈におけるモノの認識はこれに近いところがあるのではないか。つまり、自分が買おうとしているものとか自分が送ろうしているものを雑に扱われることは、日本的文脈だと、モノではなく自分が雑に扱われたと錯覚し、自分が軽んじられたと思ってしまうのではなかろうか。逆の言い方をすると、アメリカ的文脈において、セルフとモノのあいだにはそうした呪術的臍帯は存在しないということになるだろう。だから手紙は単なる紙であり、重要なのはそこに含まれている情報であって、手紙そのものではない。だから、手紙が判読可能であるかぎりノープロブレムなのだ。もちろんこれはアメリカにおいてモノにたいする愛着や執着がゼロであるということではないし、アメリカの文化的文脈においてモノがその所持者の文化的アイデンティティを表明しないということを意味しない。実際、学生たちはノートパソコンの天板にステッカーをベタベタ貼っているし、そこかしこで所持物はさまざまなかたちで所有者の意思表示をしている。しかし、ここには、モノにたいするフェティシズムが欠如しているようにも思う。モノを「愛でる」という感覚はもしかすると日本独特のものなのだろうか。