うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。本場の各国料理。

アメリカ観察記断章。アメリカでは日本でいう「エスニック料理」が総じて「本場の味」であると言えるのではないだろうか。もちろん大規模にフランチャイズ化されたメキシコ料理や中華料理はすでに「アメリカ料理」である。しかしローカルに根ざした小規模レストランの場合、主要ターゲットはまずなにより同国人やその子供たちであるように見える。地場密着を目指す店はそもそもそういう場所にしか出店しないだろう。たとえば韓国料理屋はコリアタウンに、中華料理屋はチャイナタウンに、ベトナム料理屋はウェストミンスターのリトルサイゴンに、という具合に。もちろん文化の最先端を行くお洒落な所ではフュージョンが進んでいるけれど、そこから遠く離れれば、依然としてローカルさが残っている。違う言い方をすると、日本では「エスニック料理」がつねにすでに日本人顧客を相手にしているがゆえ過剰なまでに「エキゾチック」なものを強調しているとしたら、アメリカではむしろどこか素っ気ないようでありながら実は強烈なまでに故国を思わせるよすがとして機能しているのではないか、ということだ。などという仮説を立ててみたが、実はまったく外食をしないので、これはすべてまったくの当て推量で、どこまで的を射ているのかまるで定かではない。ただ次のことはそこそこ当たっていると思う。日本が他国の文化的行事を輸入すると(ハロウィーンだとかオクトーバーフェストだとか)どうしても上っ面なものになってしまうのは、文化的内容(かぼちゃだとかビールだとか)を輸入してもその実際の担い手たる人々が日本国内に実際に存在していないからではないかと思う。接ぎ木は持ってきたものの、それを接ぐための木が存在しないかのような状況であり、日本において他国の文化はつねに日本的文脈に移植されることになる。こうした異種混交のなか、日本では、何かとても興味深い誤解だとか思い違いだとかが文化翻訳の際にいつも起こっているのだろう。日本における文化輸入は、つねに、オーセンティックでありながら、オーセンティックではない。