うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。和製英語の正しい英訳。

アメリカ観察記断章。英語を話していて微妙に困るのは、和製英語の正しい英訳が思いつかないときかもしれない。とはいえ和製英語であると気づけるのはまだいいほうで、長らく英語であると信じて疑わなかったものが実は和製英語なのだとわかって驚くことも少なくない。たとえば今日StoppardのVoyageという戯曲を読んでいて、ベビーカーが和製英語であることを初めて知った。言われてみればアメリカ英語だとbaby carriageかstrollerなどが使われている。グーグルでbaby carと検索しても baby car seatsがヒットする。それはさておき、アメリカで暮していると、これとは真逆の驚きもある。純正日本語が英語になっているのを目にしたり耳にしたりする機会が意外とあるのだ。たとえば、理解に苦しむほどteriyakiはポピュラーな単語になっている。先日発見したおもしろい例は、kigurumiだ。ユニクロの入っている巨大ショッピングモールの同じ階には子供用品店がたくさんあり、その店先の看板のKIGURUMIという文字が目に飛び込んできて、思わず二度見してしまった。キグルミと言っても、テーマパークで見るようなものではなく、動物パジャマといったほうが正確だろう。フードに耳がついていたり、ズボンにシッポがついていたりする服のことだ。だから、ここには微妙な意味内容のズレがある。「teriyaki」にしても、日本語のいう「照り焼き」とはずいぶん違う。日本のそれがみりんによる醤油の照りだとすると、こちらのは砂糖の甘さとソースのような粘りが前面に出ている。こうしたズレは腹立たしくもあるし、興味深くもある。しかし文化が他の文脈に移され他の言葉に置き換えられるということは、不可避的に、原典から遠ざかることを意味するのだろう。ここに異を唱え、オリジナルに忠実であれと声高に叫ぶのは、野暮というものだろう。とはいえ、やはり、違和感は残るのだけれど。

 

とはいえ、ある程度英語がわかるようになってくると、逆に、和製英語の創造性に感動するというのもある。 ウィンドシールドよりフロントガラスのほうが直感的にわかりやすい気はする。車のフロントウィンドウは風除けから発展したようだから、ウィンドシールドのほうが起源的には妥当だろうが、そうした歴史的継続を踏まえていない和製英語のほうが、現代的感性にはピンとくるところもある。