うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。Proud to be an American。

アメリカ観察記断章。Proud to be an American。アメリカ人であることを誇りに思う。そんな風船が近所のスーパーのレジの脇にふわふわ浮かんでいた。アメリカではこの手のアイテムをいたるところで見かけるのでいまさら驚いたりはしない。しかし、イオンのレジの脇に「日本人であることを誇りに思う」というロゴの入った風船が浮かんでいるところを、日の丸を模した風船が浮かんでいるところを想像して欲しい。それはほとんど想像に窮するくらいありえない光景ではないだろうか。国旗のほうはありえるかもしれない。年末年始や祝日のときならありえるだろう。しかし「日本人であることを誇りに思う」はどうだろうか。

愛国心の問題なのか。いや、これは、愛国的なグッズが商業的な空間にどこまで入ってくることを許されているのか、愛国的なグッズがどこまで資本主義的な市場経済の一部になっているのか、という商業的な問題であるように思う。実際、星条旗はさまざまなデザインに変換され、いろいろな商品として売られている。こうして国家的なものは、政治的なものである以上に、経済的な部分で可視的になる。

日本の文脈で「日本人であることを誇らしく思う」などという文章が公の場所に掲げられているのを見たら、まず疑うのは右翼的なプロパガンダだろう。しかしアメリカではそうではないし、そこまでいかない。ここには政治的プロパガンダの匂いを感じない。何かとても素朴なものがあるように思う。おそらくこの奇妙な無臭さ、純真無知な自国の称賛に呼応するものを日本で探そうとするなら、それは県民自慢のようなものではないだろうか。たとえば、「遠州人であることを誇らしく思う」「名古屋民であることを誇らしく思う」というような郷土愛がProud to be an Americanが意味するところなのだと思う。裏を返せば、アメリカでは国家的なものとの結びつきが近く、直接的で直感的なのだろう。