うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240429 石神夏希演出「かちかち山の台所」@舞台芸術公園と平沢地域に参加する。 

20240429@舞台芸術公園と平沢地域 「かちかち山の台所」

「かちかち山」は、人間に土地を奪われたたぬきが投げかけた呪詛の言葉にたいして暴力をもってを応酬した人間が逆に仕返しされ、仕返しされた人間に代わってうさぎがたぬきを残酷にやりこめていく説話と要約して差し支えないところではあるが、「間食付きツアーパフォーマンス」と題された石神夏希による「かちかち山の台所」がフォーカスするのは、この説話の前提である。土地の所有をめぐる問題、食べること食べられることの対称性の問題。

日本平の中腹を切り開いて作った舞台芸術公園は、もともとは農家の所有するミカン畑や茶畑が広がっていたという。幕末以降の茶の輸出拡大とともに開発された地域なのだそうだ。しかし、百年どころか、一気に千年以上さかのぼれば、8世紀初頭、行基が訪れていた地でもある。地蔵菩薩を彫刻して安置したばかりか、のちの聖武天皇の病気平癒祈願のために再訪しており、そのとき高さ50m直径24mの楠の木から作られた七体の観音菩薩像のひとつは、今もこの地の平澤寺にある。しかし、数千年、数万年の昔、ここは動物たちの土地であった。おそらくここにはたぬきが暮らしていたことだろう。動物が人間の土地の先住者であった。だとすれば、人間はいかなる理由によって動物の土地を奪うことを許されたのだろうか。

「ツアーパフォーマンス」と呼ばれる本公演の参加者は、10数名ずつに分けられ、舞台芸術公園の周辺を2時間近く緩くトレッキングすることになる。「かちかち山」の登場人物(ただし、説話の視点人物であるおじいさんは除く)を演じる俳優たちがあちこちで待ち構えており、最初の一人が、「ここにいる人々はみんな、たぬきが化けているのであり、夜になるとたぬきに戻る」という設定を、この現実世界に上書きする。だから、その後、イヤホンガイドをとおして、たぬきやうさぎやおばあさんの語られなかった心の内を耳にすると、説話の物語世界が、現実の土地のうえに重ね合わされ、ますます渾然一体となり、動物が物言う対等な存在に思えてくる。

そこで浮上してくるのは、説話のあっけらかんとした残酷さーーたぬきを食べようとするおじいさん、助けようとしたおばあさんに生贄役を肩代わりさせ、おばあさんをおじいさんに食べさせるたぬきーーではない。「食べられようとしているたぬきを可哀想だと思うおばあさんは、たぬきは人間に食べられる存在だが、人間である自分は食べられる側になることはないという立ち位置に安住しており、傲慢ではないか」というようなことをたぬきが呟くとき、そこでは、カニバリズムの人間中心主義をも超える視点が立ち現れてくる(人間が人間を食べることを絶対的な禁忌とすることは、人間が動物を食べることを問題視しないことであるからだ)。

食べる食べられるを関係の基礎に据えること、それは、動物であれ人間であれ、対等だからこそ食べられ食べる関係が成り立つこと、対等な相手を食べることの本源的な残酷さを俎上に載せつつ、食べることの倫理性を問いかけることである。それは答えのない重たい問いだが、物語のアフター/アナザーストーリーというありがちな道具立てで、耳に直にささやきかけるイヤホンガイドをとおしているからこそ、かつて(今も)そのような思いを抱いていたかもしれない動物たちがいた(いる)のかもしれないと信じさせてくれる。自然を切り開いて作った寺の周囲や畑の中にいるからこそ、これらの言葉がわざとらしくない本心からのものであるかのように伝わってくる。

しかし、たぬきが言うように、尊厳を持って相手を食べることが正しいとしても、食べる食べられるという双方向的な対等性からこぼれ落ちているおばあさんのような存在ーーおじいさんのような存在に仕事を押し付けられ、搾取されるばかりの存在ーーが、食べられるのを待つばかりのたぬきにみずからを重ね、共感し、憐憫を覚えるのは間違っているのだろうか。ツアーの道中で、相反するような様々な意見が提示されていく。ゆっくりと歩いていくからこそ、そのひとつひとつを反芻し、思いをめぐらす時間と余裕がある。

石神は問いを提示し、それにたいするいくつかの回答を提供し、それらを考えるための場所と空間を用意してはくれるが、唯一的な解答を掲げようとはしない。いわばすべての問いは宙吊りのまま残る。そのような未決状態のなか、地場産の素材で真面目に調理された豆ご飯のおにぎりを頬張り、鶏汁を啜り、春の緑に覆われた日本平をのどかに眺めていると、そのあまりの幸福感に、それらの問いの姿がだんだん薄くなっていく。

それでよいのだろうかと思う。しかし、それでよいのかもしれないとも思う。観客はきっと、これから、このパフォーマンスで提起されたことを、日常のなかでふと思い出すことだろう。そのような弱く長い影響こそ、このような演劇体験にしかない強さであるように思う。