うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

身体の不自然化の帰結はどこに?:Zoom in Training再視聴

20200418@くものうえせかい演劇祭

Zoom in Trainingはもう見ないだろうと言った手前、なんでまた見たのだと自らツッコミを入れたくなるところだが、激しい雨が降っていてとくにやることもなかったのでと答えるほかない。宮城による解説を初めて見たが、トレーニングの趣旨はこちらが想像していたものを大きく越えるものではなかった。

自分の身体を他者として捉えること、それがトレーニングの根本目的であるらしい。それは、別の言い方をすると、自分のコントール下にあると思っていたもの(自分のからだ)が、実はまったくままならいものであることを発見するというプロセスである。

そこから、自然というものがそもそもぎくしゃくした動きを持っているということ(たとえば花弁は滑らかに開いていくものではない)、それどころか、ぎくしゃくさこそが自然である、という逆説的なテーゼが引き出されていく。

こうしてわたしたちが自然であり当然であると思っていた世界観がひっくり返る。自分の身体は自分にとって他者であり、自然=世界は不器用でぎこちないものである。

では、この転倒から、どのような芸術的方向性が引き出されるのか。どのような方向性を、引き出そうとしているのか。

ひとつありえるのは、自然状態における不自然さ(トレーニングされていない体の本質的な不器用さ)を受け入れて、それをできるだけ滑らかな自然へと作り変えていくことだが、それは、ムーバー/スピーカーの二人一役システムを使うSPACのめざすところではない。ままならなさをどうにかするというよりは、どうしたってままならないものなのだというところを強調すること、それが宮城の方向性だと思うのだけれど、この方向性は依然として手段でしかないだろう。

このトレーニングを、ブレヒトの異化作用の身体版のようなものであると捉えるならば、その用途は何なのか、その目的は何なのかと考えずにはいられない。ブレヒトは異化作用を、聴衆の批判意識の醸成のために生かしたけれど、SPACの場合はどうなのだろう。すくなくとも明示的なかたちでは大きな目的は言語化されていないし視覚化されてもいないように思う。

ここがいつもわからない。

方向性は示されているのに、目的地がわからない。地図が途切れてしまっているような、地面がいきなり消え失せてしまっているような、そんな感じがする。だから宮城演出は、つねに、持続的なかたちで何かに向かうというよりは、最後のほうでどこかに飛躍して、あいだを抜かすような印象を受ける。この断絶の身振りはモダニズム的であるようにも思うし、それが直感的になされているように見えるあたりが、きわめてロマン主義的であるようにも感じる。

最近の宮城演出のある種の手詰まり感は、このあたりのバランスが崩れているせいではないのかという気もする。宮城は基本的に直感肌で、ロマン主義的な性向(それはアングラと通底するものであり、自然の自然化と言ってもいいだろう)を持っているにもかかわらず、その演出メソッドの核心にはモダニズム的な切断や断絶(自然の不自然化)がある。

宮城による神話的説話の演出がはまるのは、物語内容のロマン主義性を、演出のモダニズム性によって中和することによって、べつの化学変化が起きるからだ。物語内容の歴史的地理的特殊性(ある土地に伝わる具体的な伝承)が、非自然主義的なモダニズム的メソッドによって、普遍的なもの(たとえば争いと赦しの問題)に昇華される。

しかしこの中和的昇華は、戯曲を選ぶ。宮城が自らの好みであるらしいアングラ劇に接近すればするほど、彼の代名詞的演出法であるモダニズム的なムーバー/スピーカーの二人一役は余計な夾雑物として、そのノイズがわずらわしくなる。

身体の不自然さを自意識化してなお、プリミティヴな肉感性や官能性のようなものを捉まえることができるのだろうか。宮城演出がいまとはちがうべつの地点にたどりつくには、そこが問われているのではないか。