うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

自撮りの技術とそれ以上のセルフ・プロデュース力:バーチャル立ち稽古再視聴

20200422@くものうえせかい演劇祭

バーチャル立ち稽古をなんだかんだで仕事のお供にしながら視聴しているのだけれど、見るほどに、個々の俳優にかなり特殊な演出力を要求するメディアだという思いが募る。

特殊な演出力と大げさに書いたけれど、平たく言えば自撮りの技術。俳優たちがスマホのようなものを使っているのか、ラップトップを使っているのか、それとも独立したカメラを使っているのか、そこはよくわからないけれど、ラップトップの場合カメラはスクリーンの上部にあるわけで、スクリーンを見つめてしまうと視線は下向きになってしまう。うつむいた顔が映り、目力が大きく殺がれる。だから視線はつねにカメラに向けられている(というかカメラの少し上方だろうか?)必要がある。

けれども、これは自撮りより複雑だ。一方的な画像のキャプチャーではなく、画面の向こう側にいるほかの人間と繋がるための対話的なものだから。そのためには、スクリーンを見つめないわけにはいかないから。

ここにはジレンマがある。ズームを見ているだけの観客を考えれば、視線はつねにカメラを意識したものでなければならないけれど、対話相手のことを考えれば、スクリーンをとおして相手の相貌をリアルタイムでフィードバックしないわけにはいかない。画質が微妙に荒いからこそ、視線がさまようと落ち着かない。

あたかも4つの目が必要であるかのようだ。カメラを見る目、カメラという目を通して観客を見る目。スクリーンを見る目、同じ俳優を見るための目。カメラのための目とスクリーンのための目が縦に2列で計4個の目玉。けれどもサイボーグ的な身体は現実には不可能であり、とても解決策とはいえない。

ありえるひとつの解決法は、クローズアップの構図を避け、全体を広く映すようにすることだろうけれど、これはこれで、かなりうまくカメラを固定しないと、全体としてぼやけた画になってしまうし、ウェブカメラ程度の画素では画質は荒くなるばかりだ。テレビや映画の撮影なら、視線をどこにやるか誘導してくれる人がいるのかもしれないし、そうした世界で仕事をしたことがある人はきっちり身につけているのだろうけれど、舞台を専門とする俳優には未知のスキルなのかもしれない。だからこそ、こうしたバーチャルな見世物では、セルフ・プロデュースすることにたいしてどれだけ自意識的であるのかというところが如実に明るみに出てしまう。残酷なまでに。