うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

Zoom in Trainingの先にあるもの:状態のコントロール、または存在の演劇

20200424@くものうえせかい演劇祭

宮城の言うところの「秘中の秘」、このトレーニングの先にあるものは、「ムーブメントではなく、状態をコントロールすること」にあるという。

(1)一方において、まず丹田に重心を集め、それを安定化させる。しかし他方において、それを自由に上下させられるようにする。けれども、かりに移動可能なものであるとしても、重心がつまるところは重しのようなものであり、不動性を志向するだろう。

だから、(2)運動性を志向するべつのものが必要になってくる。それは「エネルギーのベクトル」とでもいうようなものであり、重心と連動しつつも、重心に拘束されることなく自由に方向性を変えられるようなものである。ここには、相対的自律性のようなものがある。重心は地面に向かって下に落としていくが、エネルギーは斜め前に放射されていくというように、複数の矢印を俳優の身体が体現している状態が、ここでは目指されているらしい。

そこにさらに、(3)「心拍数」というモメントが加わるとのことだった。

端的にまとめるなら、このトレーニングの究極的な目的は、ムーブメント(すること)によって何かを表現するのではなく、存在(あること)がつねにすでに表現であるような状態を、自意識的に作り出せるようにすること、そのような状態を自由に再起できるようにすることにある、ということになるだろう。

きわめて漠然としているようで、きわめて具体的であるようにも思う。なぜなら、「役になりきれ、役の心理を考えろ」というような全体的な指示の代わりに、「しかじかの状態になれ」というはるかに具体的な指示が下されるだろうから。

けれども、この具体性は、やはりとんでもなく漠然としている。「足取りの重さ」を「状態」として表現すること、それは「足取りの重さ」という「存在」になることであり、その究極的なかたちは、ただ立っているだけで、ただそこにいるだけで、その状態が身体から放出されて観衆に伝わるというようなシチュエーションだからだ。

存在の演劇、それはきわめてハイデガー的でもあるし、東洋的なものであるような気もする。「する」ことではなく、究極的には「なる」ことですらない、ただ純粋に「ある」ことの演劇。