うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

加害者と被害者のあいだの非対称性:姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋、2018)

小説は事実的に正しくなければならないのか

この小説の「竹内つばさ」が東大生「すべて」を象徴していると考えるのは誤りであるし、東大生の「平均」を表していると受け取るのもやはり正しくないだろう。本書をめぐって駒場キャンパスで開かれたブックイベントのなかで、ジェンダー論の代表的学者のひとりにして自身も東大卒である瀬治山角が、自らのゼミ生の言葉を引き合いに出しながら、事実レベルでも心理レベルでも東大のリアリティを正確に描写していない、違和感がある、と語気を強めているのは、わからなくもない。

しかし、奇妙なのは、瀬治山とそのゼミ生たちが、強制わいせつ事件の加害者である5人の東大生とはべつのグループに入るような東大生もまたこの小説のなかで描き出されているという事実に、ほとんど注意を払っていないように見える点だ。奇妙なのは、瀬治山とそのゼミ生たちの自己投影的な視線は、腋臭で小太りで女にもてなさそうだと馬鹿にされる兄のほうではなく、賢く立ち回って美味しいところをかすめとっていく次男坊の「竹内つかさ」のほうに自然に向けられ、そして、その無意識的な投影のあとで、その視線が全力で否定されているかのように思われる点だ。

瀬治山は「竹内つかさ」の「ピカピカツルツル」の心理をありえないと退けたあと、挫折にまみれ屈折した心理の持ち主をこそ、東大生の範例として造形していくのだが、この操作は、姫野カオルコの複眼的で複数的なキャラ配置よりもはるかに還元的で、東大生の一面しかとらえていないだろう(ここでは「神立美咲」や彼女の友人たちの類型性についてはほとんど語らないが、それは彼女たちを無視したいからではなく、彼女たちについて正しく語れる自信がわたしにはないからである)。

なるほど、瀬治山が代弁しようとしていたのは、『彼女は頭が悪いから』には登場しない別の東大生の存在だったのかもしれないが、表象の事実的正しさによって小説の良し悪しの大部分を論じようとしているところは、社会学者である瀬治山が小説を基本的に社会的資料‐史料と見なしていることを露呈しているだけではないか。

しかし、もし姫野の小説が東大生の表象としては事実的にも心理的にも不正確であるとしても、彼女が「竹内つかさ」やその他のわいせつ事件加担者たちという「東大生キャラ」によって描き出そうとしたものは、社会学的にきわめて興味深いものであると思う。そしてそれは、瀬治山の言う挫折の有無であるとか、心理的な屈折とはまったく別のものである。

 

しかし、その議論に進む前に、瀬治山にならって、この小説の事実的な正しさについてひとつ不満をもらしておきたい。この小説の登場人物たちが、男も女も、加害者側も被害者側も含めて、大部分が広い意味での首都圏の人間に偏りすぎていないか、という点である。加害者に地方出身者がいないというのではない。しかし、ここで描き出される世界は、首都圏のスクールカーストや生活圏を内面化した人間たちのそれであるように思う。もちろん、『彼女は頭が悪いから』は、首都圏在住の富裕層の中高一貫出身の男たちの内面世界や世界観を描き出した、そのひとつの頂点として東大を取り上げたのだ、と言ってしまうと、結局は、姫野の小説は現実の事件をネタにしたテクストにすぎないと貶めることになってしまうのは言うまでもない。繰り返すが、以下で論じたいのは、東大にも首都圏富裕層にもとどまらないもっと大きな問題を姫野の小説は提起しているのではないか、という点である。

 

加害者と被害者のあいだの非対称性

『彼女は頭が悪いから』がクローズアップするのは、加害者と被害者のあいだの圧倒的な非対称性だ。被害者はまだ加害者のほうを(少なくとも加害者が加害者と判明するまでは)、自分よりはるかに上に仰ぎ見るとしても、依然として同じ人間と感じている部分があるというのに、加害者のほうは最初から一貫して被害者を同等の存在と考えていない。

彼らがしたかったことは、偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤いにすることだった。彼らにあったのは、ただ「東大ではない人間を馬鹿にしたい欲」だけだった。(464頁)

両者のあいだに上下関係があるということよりもはるかにラディカルな断絶が、ここには開けている。もし両者が同じグループに属しているなら、たとえいまは下にいたとしても、いつかは上にいけるかもしれないし、いま上にいる人に認めてもらえるかもしれないと幻想することができる。だが、もし両者が同じグループに属していないとなれば、そこでは融和の可能性が最初から完全に排除されていることになる。

「竹内つかさ」たちが表象するもの、それはおそらく、東大を含むより広い層の傲慢さである。それは自らよりも劣ると認定した対象を、未来永劫、劣った対象として貶め続けることであり、そのポジションを相手に強要することである。俺よりも劣るお前は、エリート様の嘲笑のネタとしてずっとイジられていろ、というエートスである。

そのエートスは学力には限ったものではないだろう。お笑いでも、スポーツでも、ネオリベラル的なプラグマティズムと奇妙なかたちで融合を果たしたマッチョなホモソーシャルな男の仲間関係が存在するところでは、どこにでもあるものだろう。相手を人間として認めない態度である。

 

いじめられっ子は永久にいじめられっ子でなければならない世界を自明とする

カール・シュミットは政治の根本条件に敵と友の絶対的な区別を置いたが、そこでシュミットが想定した敵の姿は、ニーチェの思い描いた敵に近いものだったはずだ。「敵とみなす価値があるとわたしが認めた存在」である。たとえそこで相手に向けられるのが憎しみであるとしても、それは敵を自分に劣らず優れた存在として尊重しているからである。憎しみにも値しない存在は、敵ですらない。それは人間ではない。

これは虐めの構造と似ているだろう。いじめられっ子は、いじめられっ子であるかぎりにおいて存在を許容される。そのポジションを否定したり、そのポジションから逃走することは許されない、というわけだ。

彼らがあの夜、彼らの目的から、美咲の行動として「想定」したものは、顔を赤くしたり、歯を見せて笑ってごまかして、いやんいやんと身をよじらせることだった。(463頁)

これが恐ろしく傲慢なのは、許されないといじめる方が思うだけではなく、許されないという心理をいじめられっ子にも内面化することを強いるからである。それは自分の心理だけではなく、他人の心理をも自由にしようという態度であり、さらに言えば、自分が見下す相手はすべてモノであり、自分のおもちゃであって、人格も人権も持たない存在であるという世界観の自明性を微塵も疑わない態度である。

無自覚な暴君の態度である。意識的なサディストよりもはるかに始末が悪い、無意識なサディストのナチュラルに暴力的な振る舞いである。

 

「わからない」

姫野の小説は、この傲慢さの恐ろしさを執拗に描き出していく。小説の結部が繰り返すように、加害者たちは、自分たちがなぜ責められなければならないのかが、本気で、純粋に、「わからない」のだ。なぜなら、彼らにしてみれば、そして彼らを育てた親にしてみれば、彼らが「頭が悪い」女を嘲りの対象とすることは自明であり、そこに倫理的な問題は存在しないからである。

彼らはぴかぴかのハートの持ち主なので、裸の女がまるまって、ううううと涙を垂らしている状態は、想定外であり、優秀な頭脳がおかしてはいけないミス解答だった。(463頁)

もし倫理が対等の存在を相手にした場合にしか、そこに拒否と実行の精神的自由の葛藤があるところにしか立ち上がってこないものだとしたら、「竹内つかさ」たちにとって、神立美咲は、倫理の対象ではない。

というよりも、彼女は、彼らの「想定」どおりに反応するモノでなければならないのである。だから、彼女が彼らの「想定」する以外の心理や思考を持つことは、「許しがたいこと」として彼らの怒りを誘発するのではない。なぜなら、彼らは最初から、彼女がそのようなものを持っているとは思っていないからである。だから彼は「信じられない」と困惑するのである。

さっきまでぐいぐい酒を飲んでいたのに、途中からまるまってひとことも発しなくなった美咲の反応は、彼らの経験や感応や発想の、まったく外にあるものだった。(462頁)

ここでいう「わからない」は、理解しようという努力の欠如のせいでもなければ、理解力の欠如のせいでもない。「わからない」のは、相手に、自分と対等の権利を認めていないから、相手に自分と同じような感性や思考が備わっていると認めていないからである。それはたとえば、机の気持ちが「わからない」と言うようなものであり、分かり合おうという意識的な努力の手前にある潜在意識の問題である。

加害者たちが自らを被害者の身に置いてみることができないのは、彼らの想像力のなかに、被害者の人間性の居場所がないからである。というよりも、彼らにしてみれば、たとえ仮想的にであれ、被害者の立場に自らを置いてみることは、言葉に言い表せないほどの侮辱行為なのである。それは、自分の手で自分の人間性を剥奪してみろ、という意味なのだから。自分よりも下のクラスの人間になれ、と言うのではない。そうではなくて、クラス外の、人間以外の存在になれ、と言うことだからである。

 

人間の尊厳の侮辱にたいする本能的な身体反応

どうすれば、ひとたび見下した相手を対等な存在と認めない人びとに、相手の人間性をもういちど認めさせることができるだろうか。

加害者のひとりである「譲治」の母、頭がよく社会的地位もある三浦紀子だけは、「かろうじて」美咲の反応を察することができた、とテクストは述べる。三浦紀子が、神立美咲の通う大学の教授である同姓同名の女性に電話をかけ、美咲が求める東大退学以外の示談の筋道をつけるためのとりなしを求めたさい、教授が次のように言い放ったからである。

「息子さんを含む、事件にかかわった5人の男子学生の前で、あなたが全裸になって、肛門に割箸を刺して、ドライヤーで性器に熱風を当てて見せるから示談にして、とお申し出になってみてはいかがですか」(463頁)

「とても静かな声」でなされた電話越しの返答にたいして、譲治の母は脊髄反射的な身体反応を見せる。

電話を切ったあと、鼻のあなからしゅうっしゅうっと荒い息を吐き、顔も首も真っ赤にした。そしてぶるぶる震えて、ずいぶん長いあいだ椅子にすわったまま、椅子のアームをぎゅうっとにぎりしめて動かなかった。(464頁)

それはまるで、たとえ「経験や感応や発想」が理解することを拒否するとしても、わたしたちの身体はわたしたちの人間性の尊厳に加えられた侮辱を自動的に理解して、わたしたちが意識的に理解するまえに反応するかのようである。

 

わからせること

加害者に同じ辱めを加えることが、わからせるための唯一の道なのだろうか。

それはわからないし、小説はその点について答えを提供しようとはしていないように思われるし、それはもしかすると小説の役目ではないのかもしれない。しかし、この小説の読者であるわたしたちは、人間性が互いに尊重される世界のために、何ができるのか、何をすべきなのか、と自ら問うことはできるし、おそらくそう問うべきである。

だが、そう問うとき、「わかりあうこと」がゴールであるべきなのかという疑いが、ふとわいてくる。加害者と被害者の関係では、前者に後者のことを「わからせる」ことが絶対に必要であると思うけれど、現代のように社会のさまざま層においてさまざまな分断線が走っている世界において、断絶の向こう側にいる存在を想像すること、自らを「他者化 othering」(ガヤトリ・スピヴァック)することが、果たして現実的な選択肢なのだろうか。いまある世界のあまりに強固な自明性にたいして思わずひるんでしまう弱腰な態度から、そんな意気地のない懐疑がわいてくるのだ。

倫理的に考えれば、「いまだ起こっていない」ときに「すでに起こった」かのような先取り的想像力を働かせるべきだ、と即答できる。しかし、それは、内面化されてしまっている「経験や感応や発想」を、何かしらの問題が発生するまえに「学び忘れ unlearn」、自らの感じ方や考え方を見つめ直し、それを作り直していくことにほかならない。

このプロセスはおそらく、なにかしらのきっかけなしに自動的に始動することはないだろう。意図的に始動させられなければならないが、にもかかわらず、強制的であってはならない。強制してしまえば、相手の尊厳を何らかのかたちで踏みにじることになる。たとえ相手の考え方や感じ方が、どれだけ嫌らしく、どれだけ醜いものであるとしても。

尊厳から始めること、それは相手のすべてをまずは無条件で受け入れることではないか。最初から選択的に振る舞うことは、排除の論理をデフォルトにすることにしかならない。排除されるべきもの、克服されるべきものがあることは言うまでもない。しかし、自分の世界観を頭ごなしに押しつけることは、相手をモノとして扱うこと、相手に「想定」どおりの反応を強いることにしかならないだろう。

わたしたちはすでに物事の渦中にある。すべてを抹消して、ゼロからやり直すことは誰にもできない。わたしたちはすでにあるものといっしょに、すでに出来上がっているもののなかで、普遍的な尊厳のためのすこしずつともに歩んでいくしかない。そうでなければ、「彼女は頭が悪いから」と言い放って自分たちの尊厳しか認めない輩によるリアルな暴力が依然として続いていってしまう。

問題は、わたしたちが対人関係においてフィジカルにもメンタルにも暴力的でなくなることではない。わたしたちに力が備わっている以上、それが他者にたいして何らかの暴力的効果を発揮することは避けられそうにないからだ。しかし、仮にそうだとしても、相手を対等と認めないという根本的な構造的暴力を解きほぐし、誰をも対等で尊厳ある存在と認めることをデフォルトとする構造に組み替えていくことは、依然として可能であると願いたい。

深層構造における精神革命をめざすこと、それこそ、この小説からわたしたちが学び取るべきレッスンであるように思う。