うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「ネイティブは日常、非ネイティブはユートピア」:多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社、2018)

重なり合う糸、閉じない端

無関係にみえた人びとが言葉をめぐる冒険をとおして撚り合わされていく。しかし、言語の冒険物語は、決して大団円にはたどりつかない。糸はほどけ、突如として断ち切られる。

それは、多和田の小説が解決をめざしていないからだろう。もし解決が、結び合わせて閉じることであるとしたら、無数にある可能性のなかから任意の糸だけを選び出して残りを切り捨ててしまうことであるとしたら、多和田の小説は切り捨てないことを、選ばないことを選ぶ。

だから、断ち切られるという言い回しは正しくないだろう。端をほつけたままにしておくことで、そこに、べつの糸と絡み合っていく可能性を開いたままにしておくのだ。可能性はつねにすでに開かれているのだから、問題は、その可能性を殺さないことである。たとえ開きっぱなしにしておくことで、物語がどこか踏ん切りのつかない尻切れトンボのようなものになってしまうとしても、である。

多和田の小説が与えてくれるのは、充足感ではない。われ目もすき間もない容器が上まで一杯になるような感覚ではないし、蓋をこえて溢れ出すような奔流の感覚でもない。多孔質な肌理のあちこちから中身がほのかに滲み出たり、ちょろちょろと流れ出たりするような、そして気がついてみれば容器のなかにない中身がべつのところでべつのかたちをかたちづくっているような、そんな静かで深いふいうちの感覚だ。

 

 

あらすじのようなもの 

『地球にちりばめられて』は万華鏡のような6人の語りで出来ている。そこには6人の声を統合するような作者=語り手による上からのまとめは存在しない。誰もが状況の内側から、自分の視点から語る。けれども、言語をめぐる物語である『地球にちりばめて』を始動させ、出逢いを作り出し、人びとを導いていくのは、「コペンハーゲン大学言語学科の院生」クヌートである。

クヌートは、スカンジナビアの諸言語から手作りした彼女だけの人工言語「パンスカ」を話すHirukoをテレビでみて、彼女に会いたくなる。デンマークの「メルヘン・センター」で移民の子供たちにお手製の紙芝居をやっているHirukoは、トリアーはカール・マルクスの生家で開かれるらしいウマミ・フェスティバルに行くつもりである。というのも、そこに行けば、彼女の失われた母国の母語をシェアする人に会える可能性があるからだ。Hirukoに惹かれるクヌートは彼女に同行することに決める。

ルクセンブルクでアカッシュがふたりに加わる。女性として生きるという「性の引っ越し」を決めてからアカッシュが外出時に着ている赤色系統のサリーではなく、かつてインドと呼ばれていた南アジアの国の出身であるアカッシュの話す「マラーティー語」がクヌートを惹きつけ、アカッシュはクヌートに惹きつけられる。

ウマミ・フェスティバルの講師を務めるはずだったテンゾがカイザーテルメン(皇帝浴場)の遺跡で行き倒れていたのを救ったノラは、真の労働者になりたいと願って大学に行く代わりに病院に勤めてみたものの、結局は大学で政治学と哲学を専攻して、卒業後は地元の博物館に就職していた。恋人と別れたところだったノラはエキゾチックな若者テンゾに惹きつけらえていく。

テンゾはHirukoの同郷人ではないし、テンゾは本当の名前ではない。グリーンランド育ちのクヌートは実はナヌークの過干渉な母が提供する奨学金コペンハーゲンに出てきて、環境生物学を学びたいと漠然と思いながらも医学をやるつもりですと出資者に口走ってしまったものの、語学学校でさまざまな語学をやるかたわら、「サムライ」という名のレストランでバイトを始める。先天的な語学の才があったクヌートは、ドイツ語やフランス語をやってもエスキモーはヨーロッパ人だとは思われないが、鮨の国の言葉を話せるようになればその国の人間と見られるようになるかと思い、その言葉を学び始め、「テンゾ」を名乗るようになる。大学に入るまえに旅に出たテンゾはドイツを放浪してトリアーにたどり着き、ノアに拾われる。無職のテンゾに仕事を作ってあげようとしたノアの企画したウマミ・フェスティバルが具体化するほどに自らの捏造したアイデンティティが発覚するのを恐れるようになったテンゾは、直前になって、オスロに逃亡する。

こうしてナヌークとHirukoとアカッシュとノラが行方をくらましたクヌート/テンゾを追って政治テロが起こったらしいオスローに飛ぶ。テンゾが鮨の国の住人でないことに気づいたHirukoは怒りを覚えないが、テンゾの嘘に怒るべき理由はないはずのアカッシュが怒る。そこにノラが加わり、ナヌークが加わる。

テンゾ/クヌートを探すふたつの旅が交わり合う。同郷人かもしれないテンゾと会おうとするHirukoについていくナヌークという言語の冒険の旅が一方にあり、恋人未満のクヌートをつかまえようとするノラという恋愛の冒険が他方にある。しかし、ふたつの探求が最終的にたどりつくのは、テンゾ/クヌートではなく、アルルにいる本当の鮨の国の住人の鮨職人のSusanooである。

Susanooの店にひとりひとりと合流していく。そしてそこに、ナヌークに干渉しようと後を追ってきたナヌークの母が加わり、ナヌークの母は行方不明になっていた彼女の奨学金受取人のクヌートを発見する。こうして偶然のなかで出会っていっただけだったキャラクターたちのあいだには、もとから、微妙な関係があったことが発見される。それは生物学的に真なる血のつながりではなく、後付けで作り出された偽のつながりでもあれば、言葉によるナヌークとクヌートという疑似兄弟(ナヌークの母はクヌートに奨学金を出す)、すでに滅んでしまった鮨の国の住人であるSusanooとHiruko、鮨の国の住人の失われゆく言葉を学びそのアイデンティティを得ようとしたクヌート/テンゾ。しかし、物語の大団円になるかと思われた全員集合は、沈黙に沈みこんでいく。Susanooが語るのは沈黙である。そんな不思議な集まりのなかで、ナヌークは、自らが当事者というよりは司会者であることを発見する。

それにしても変な会議になった。僕と僕と産んだ人と偽の弟と偽の恋人とその同郷人がテーブルを囲んでいる。Hirukoが久しぶりで母語を共有するSusanooに出逢ってどんな風に会話を交わすのかを観察するつもりだったのに、そのSusanooが何語もしゃべらなくなっている事実が判明してからは、ストックホルム失語症の研究をしている先輩のところで治療を受けるべきかどうかみんなで考えるはずだった。ところがいつの間にか、ナヌークとおふくろの問題に焦点がずれてしまっている。おふくろの登場に動揺し、とりみだして無駄な口論の噴水の栓をあけてしまった自分にも責任がある。本気になってはだめだ。これはゲームなんだと思って肩の力を抜いて、コントロールを取り戻そう。ゲームと言っても、言語をこんなに使うコンピューター・ゲームはない。むしろテレビのトークショーだ。客間の視聴者たちは自分にとってはどうでもいい問題について、番組のゲストたちが顔を赤くしたり、涙を目に溜めたりして語るのを観て楽しむ。そうだ、僕は司会者を演じることにしよう。(296‐977頁)

シリアスなものではあるが、これはあくまでゲームなのだ。失われたものを求める旅、起源に至ろうという探求の旅は、そのシリアスさを失うことなく、いつのまにかファルスのようなものにすり替わってしまっている。

悲劇的なもののお笑い草への変身、そのちょっと不思議な脱臼感こそ、近年の多和田の物語の真骨頂だ。

 

すこしディストピアな暗くない世界

『献灯使』に如実に現れているように、近年の多和田の物語のひとつの基調にあるのは、ポスト日本という世界である。しかし、そこに壮大な悲壮性があるわけではない。日本が滅んでいたり、滅びかけていたりするが、そこに暗さはない。暗い現実から、ほのかに明るい奇想が立ちあがってくる。

よく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。それなのになぜ、不法滞在する人間が毎年増えていくのだろう。このまま行くと、そのうちに、人類全体が不法滞在していることになってしまう。(41頁)

多和田が描くのは必ずしも未来予想図ではない。なるほど、それはありえる可能性の未来ではあるけれど、いまの現実の延長線上にあるというよりは、そこからすこしズレたところにあるパラレルワールドのようなものだ。

だからなのか、多和田の小説では、明白な参照項が省かれている。オスロで起こった政治テロはまずまちがいなく白人至上主義者による銃乱射事件だろうし、『献灯使』の世界をもたらしたのはフクシマでの出来事だろう。だが、決してそう言いきられることはない。

それは慎み深さでも臆病さでもなく、わたしたちの想像力を非限定的なものにするための意図的な戦略なのだろう。だから多和田の物語はわたしたちの想像力を刺激し、流動化し、流体化するけれども、決して固定化することはない。ここでは、ありえるかもしれない可能性のひとつが、絶望的というわけではないけれど理想的というはずはない未来の現実が、描き出される。

 

失われたものは取り戻すべきものではない

多和田の登場人物たちは、どこか失われており、どこか充たされていないが、欠損によって不幸せになっているわけではない。過去志向でないからだ。失われたものを取り戻そうとはしていないのだ。

多和田の小説はその意味で男性的な主流モダニズムとはかけ離れている。ギャツビーやマルセルのように取り戻すことのできない過去を狂おしいほどに求めることはないし、クエンティンやスティーヴンのように自らの罪を思い起こさせる過去の虜になることはない。アッシェンバッハのように手に入らないものに憧れて緩慢な自殺を望むような破滅性はない。

多和田の小説に過去がないわけではないが、すべては未来に向かっているかのようだ。

海藻から旨味をとりだせば、魚を食べなくても魚を食べた時に感じるような満足感が得られる。将来、魚が絶滅した時に、海から生える植物からいかに魚の記憶を煮出すかが板前の大切な課題になってくるのではないか。俺はそれを「出汁の研究」と呼んでいた。(144頁)

取り戻そうという思いがないわけではない。しかし、それは、失われたものをそっくりそのまま甦らすことではない。べつのかたちで、べつのやりかたで、そうやるのだ。手段もちがえば、材料もちがう。しかし、最終的に出来上がるものはそれらしいものになっている。

そんなある日、誰に鮨の握り方やおいしい味噌汁の出汁のとり方や完璧な揚げ出し豆腐のつくり方を習ったのかとチョウに訊いてみると、パリのホテルに勤めるフランス人から習ったと言う。俺が驚いていると、「オリジナルが消滅した後は最上のコピーを捜す以外に方法はない」と謎のような言葉を吐いた。なんだか恐ろしくてその意味を問い直すことができなかった。(141頁)

オリジナル「である」ことはもはや重要ではない。というよりも、多和田の関心は、オリジナルであることにもオーセンティックであることにもない。

ナヌークが母語を共有する人間ではないことが判明しても、がっかりしなかった。むしろ母語なんてどうでもよくなってきて、ナヌークという一人の独特の発音生物の存在が、わたしという独特の発音生物と出逢ったという事実の方がずっと重要なのだという気がしてきた。(262頁)

失われたものを取り戻そうという努力、そしてその不可能な努力が生み出していかざるをえないズレ、そしてそのズレから最終的に生まれてくる未知のものへの漠然とした期待、そこにこそ、多和田の文学の勇敢さがある。それはもしかすると、伝言ゲームのなかで、メッセージの一字一句違わぬ正確な伝播に固執するのではなくて、メッセージの遊戯的な変容を楽しむことに似ているかもしれない。

 

起源を掘り崩す

作家には2種類あるのかもしれない。奔放な想像力で一足飛びに作り出してしまう作家と、地道な努力によって一歩一歩作り上げていく作家、何もないところから一挙に作っていく作家と、すでにあるものを丁寧に作り替えていく作家、まるでキャラクターたちに憑依するかのように生まれも育ちも気質も考え方も何もかも正反対のキャラクターたちまで生き生きと描き出すパノラマ的作家と、究極的には作家の分身でしかない少数のキャラクターを乱反射させる万華鏡的作家だ。そして、多和田は後者の系譜に入るだろう。 

それは彼女の想像力がちっぽけだというのではない。表面的にはそう見えるかもしれないが、それは単に入口のことだけだ。ありふれたところから入っていて、深いところをラディカルに揺すぶる。そして、屋台骨を破壊するというよりは、その構成要素を入れ替えたり、物の性質をすり替える。すると、わたしたちが自明だと思っていた世界が突如として不思議な世界に代わってしまう。

多和田がよく知られたモチーフ、神話であるとか民話のようなものを使うのは、そういう理由からかもしれない。ありきたりだと思われるところにこそ、掘り下げてみれば、不可解なものが顔を出すのである。

ある時、アマテラスオオミカミに頼まれて、機織り嬢が神に捧げる服を織っていると、スサノオが皮を剥いだ馬を機織り小屋に放り込んだ。機織り嬢は驚いたはずみで、機織り機のつんつんに尖った部分に膣を刺されて死んでしまった。アマテラスオオミカミはそれを知ると、弟に絶望し、闇に姿を隠してしまった。太陽が隠れて世の中が暗くなる。それが日蝕を意味するということはオレにも納得できる。しかし機織り機の尖った部分が膣に刺さるなんてことがありうるだろうか。これは性犯罪ではないか。もしかしたらスサノオが尖った性器を差し込んだ相手はアマテラスオオミカミ自身で、そのショックで彼女は性格が分裂して、傷ついた自分の一部を機織り嬢にしてしまったのではないか。(235頁)

こうした解釈が正しいか間違っているかは、たいした問題ではない。彼女が求めているのは、過去の真実ではなく、未来に向かうための推進剤だ。嘘でもいいのだ、もしそれが未来から振り返ってみたときに本当のことになっているのなら。

僕はナヌークが嘘をついているなと直感した。それを嘘と呼んでいいのかどうかは分からないが、袋小路に追い込まれた時に、言葉をシャベルにして抜け道を掘っていく、あのやり方だ。でも、その時必死に掘った抜け道が何年か後で研究の土台になるかもしれない。そうなったら、それはもう嘘ではない。つまり、言葉を発した瞬間にはまだ嘘かどうか決定していな(298)いということになる。(299頁)

未来に向けて開かれた嘘はいまだ果たされぬ約束なのだ。というよりも、もし具体的な真実性という基準ですべてを断罪しようというのであれば、未来についての言説のほとんどが現実的には未定の事柄であり、嘘ということになってしまう。

もちろん、国家元首に相当する人間たちが臆面もなく息を吐くように嘘を吐いている現代にあって、嘘を称えるのは危なっかしい。けれども、嘘と直感できるけれども、嘘と呼んでいいのかはわからないような可能性、追い詰められた苦し紛れの出まかせであるけれども、そこからの死に物狂いの逃走がどこかにつながって出まかせが本当になる可能性は、過去や現実をごまかすための嘘ではなく、未来によって現実を自分が望んだはずのものに変える預言的な嘘は、文学が守るべき知恵であるかもしれない。

 

言葉と戯れる

多和田の物語は、失われたものや欠けたものというウェットでエモーショナルなものを主題化するにもかかわらず、どこかカラカラと乾いている。しかし、さわれば割れたり折れたり砕けてしまうような脆い乾きかたではない。手ざわりはひんやりとしていて、すこしのあいだ触っているとわずかな湿り気が心地よく感じられ、いつのまにかその微量の水分が自分のなかのヒビワレをうるおわせ、ベトつくことなしにしなやかになっていくような、そんな感覚がある。

もしかすると、多和田にとって言葉とはなによりも音的なもので、だからこそ、感触的なものなのかもしれない。

ハシオキ、ウルシ、ミソシル、ワカメ、コンブ、ネギ。不思議な響きばかりだった。遠い場所から響いてくるのに、どこか懐かしい。発音するとずっと忘れていた子ども時代のある情景を思い出しそうになる。ところがその情景は映像を結ぶ寸前に消えてしまう。(141頁)

サウンドがヴィジュアルと結びつくし、そこにはエモーションがこもっているし、ちょっとオカルト的と言いたくなるほどの憑依性がある。

新しい単語を学んで一晩寝て翌朝目が醒めると、記憶が二つに割れていて、ずっと前にすでにその単語と出逢ったことがあるような気がしてくることがある。

本当に初めて出逢う単語というのは稀で、大抵の場合はどこかで一度見たことがあり、その時かすかな傷が脳についている。その傷が二度目の出逢いで活性化されるのだという珍説を読んだことがある。だから語学を学習する時も全く新しい事を覚えるのだと思ってはいけない。昔自分が話していた言語を思い出そうとしているだけなんだ、と考えた方がいい。(216-17頁)

なるほど、多和田の言語感覚は独特である。そして、その始まりは感性的なものが強いような気もする。にもかかわらず、それを敷衍していくやり方はきわめてロジカルなのだ。シンメトリー的と言ってもいい。

沈黙には、湿った沈黙と乾いた沈黙がある。いつか沈黙の湿度と温度について研究してみたいけれど、果たして沈黙が言語学の研究対象になるのかどうか。おふくろの沈黙がじわじわと僕を追いつめていく。(195頁)

一方には、「湿った」「乾いた」という対立するペアがある。そしてそれが、「沈黙」と、シュルレアリスム的に出逢う。沈黙という具体的ではないものを、湿りや乾きといった水分状態と引き合わせるというのは、かなり直感的なものだろう。もちろん、ここに、沈黙を雰囲気と捉え、雰囲気を空気に置き換え、そこから湿った空気や乾いた空気へとつなぐという論理的な回路を想定することは可能だけれども、ここでは、そうした連続的な中間項をあえてスキップすることで、言葉のイマージュのあいだをジャンプしているのだ。けれども、そうやってジャンプしたあと、「湿った」や「乾いた」という具体的で感性的な形容詞から、「湿度」という抽象的一般名詞へと引き上げられ、「湿度」が「温度」というペアを引き寄せる。こうして、沈黙が学問対象になったかのように思われたまさにその瞬間、沈黙は突如として「おふくろ」の所有物になり、圧倒的な現実感とともに「僕」を追いつめ出す。 

言葉が言葉を呼びこみ、イマージュが拡がっていく。

「それじゃあロボットって言葉も方言か?」「違う。チェコ語だ。」チョコ語というチョコレートのように甘い言語があるのか。もしチョコレートで機械をつくることになったら、削りかすも美味しそうだな。「チェコって京都より遠いところ?」「ずっと遠い。」(224頁)

「ロボット」という言葉を発明したチェコの作家カレル・チャペックから始まった会話は、一瞬のうちに、「チェコ語」という現実の言語から「チョコ語」という仮想の言語に飛躍し、「チョコ語」は「チョコレート」との関係から「甘い言語」として空想される。そして空想はふたたび、ロボットをめぐる会話内容に振り向けられ、そこでチョコレートの削りかすというイマージュが出てくる。言語の美味しさという不思議なアイディアが浮かび上がってくる一方、会話は元の真っ当な道に戻る。この壮大な言葉的空想冒険はほんの数行で完結する。

多和田の言葉遊びは、レパートリーが広いだけではない。瞬間的なものではなく、持続的に広がっていくものなのだ。斜面を転がる雪玉が転がるほどにますます大きくなって速度を上げていくように、彼女の言葉遊びも小さなものが大きなものへと成長していく。ひとつの単語から始まったものが、ふたつ一組のペアになったり、それがまたべつのペアと組み合わされたり、または、単語から慣用句へと発展していったりする。しかし、慣用句的な言い回しの字義どおりの意味をひょいっと表面化させることによって、それまでの流れをいなすことでパラグラフは閉じられる。

彼女の小説世界が現実によく似たパラレル・ワールドであるように、彼女の小説言語も、現実の言語によく似たパラレル・ランゲージであるような気がしてくる。

ツル、吊る、釣る、つるつる、つるつるした食べ物でもよく噛んで食べなさい、噛め、亀。失われた長い年月と妄想に近い故郷を取り戻すにはあまりにも小さ過ぎる二音節の言葉たち。でももしも言葉が一枚の巨大な網ならば、大西洋よりも太平洋よりも大きな一枚の網ならば、一か所をつまみ上げただけで残りが全部ついてくるはずだった。鶴をつまんでもダメならば、亀をつまんでみるという手もある。(268頁)

「ツル」という始まりの言葉が、意味の領域と音の領域を振り子のように行ったり来たりしながら、いつのまにか振り子の振れ幅を越えてほかの方向にも横滑りしていく。動物の「鶴」という名詞が、同音異義語の動詞「吊る」や「釣る」に横滑りし、そこから「つる」をふたつかさねた擬音語「つるつる」に続く。「つるつる」という音はふたたび意味に引き戻されるが、今度は「つる」という単語ではなく、「つるつる」から連想された「食べ物」へと横滑りし、「食べ物」が「噛む」という行為=動詞を想起させる。そして、「噛め」という動詞の活用形が、ふたたび、動物の「亀」という名詞へと帰還するとき、この連想ゲームの背後に、「鶴亀」という慣用句があったことに、わたしたちは気がつく。

とても小さな二音節の言葉は、孤立したものではないから、ひとつをつまみ上げれば、それをフックにして巨大な網を引き上げられるかもしれないし、ツマミはひとつではない。どこからでも、どういうふうにでも、つまみあげることができる。言葉はつながっているし、そのつながり方はひとつだけではない。意味からも、音からも、慣用句からも、ことわざからも、言葉のなかに入っていくことができる。 

救済がありえるとしたら、それはつねに、言葉をとおしてのことである。

 

言葉の翻訳、翻訳の言葉、言葉=翻訳の捏造的創造想像

でも言語は人間を幸せにしてくれるし、死の向こう側を見せてくれる。(77頁)

言葉は幸せをもたらす。しかしそれは、言葉が充足感を与えてくれるとか、天上界に連れていってくれるとか、そういう幸福な理由ではなさそうである。言葉はわたしたちの至らなさ、わたしたちがつねにすでに自分のなかに抱えこんでいるミステリーへの扉を開いてくれるからだ。

言語は不可思議なものでもある。多和田は慣用表現を脱臼させることで、わたしたちの言葉にたいする不感症をくすぐる。

何を話してもそれを拾って投げ返してくれる相手ならば、雪合戦が雪だるまに発展していくように、空白さえどんどん大きくしていけるかもしれないけれど、よりによってこんなに無口な相手にぶつかってしまうなんて。それにしても「無口」って変な言葉。口が無いわけじゃなくて、口はある。歯もあるし、舌もある。(274頁) 

わたしたちはなんと適当に言葉を使っているのだろう。「無口」という単語のポテンシャルをつきつめて考えていないのだ。「無口」は「しゃべらないこと」と片付けてしまうけれど、ビジュアルとして思い浮かべれば、ぎょっとするほどにオカしな光景が迫り出してくる。わたしたちの言葉は最初からおもしろいのだ。わたしたちがそれをつまらなく使っているだけなのだ

言葉は解放をもたらす。言葉は世界であり、世界観だからだ。言葉を増やすほどに、べつの目や耳が、べつの感じ方や考え方が育っていくからだ。なるほど、それはもしかすると、ごちゃごちゃしすぎて面倒くさいものかもしれない。しかし、ひとつでは、ひとつだけでは、あまりに味気なくてつまらないではないか。

語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。実はこの「アイデンティティ」という長ったらしい単語もジョージの置き土産だ。エスキモーであることが恥ずかしいとは少しも思っていないけれど、一つのアイデンティティで終わってしまうのでは人生にあまりに膨らみがない。(140-1頁)

言葉は誰のものだろうか。どこかの国のものだろうか。どこかの時代のものだろうか。勝手に学んで、勝手にその言葉の話者となり、それどころか、その言葉が話されていた国の人のアイデンティティを勝手にもらってはいけないのだろうか。

そんなことはない。非ネイティブのほうがネイティブよりも鈍感だろうか。非ネイティブのほうがネイティブより正確だろうか。ネイティブが絶対であると信じるのにはまったく科学的根拠がない。

ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。(210頁)

多和田の文学の根底には、言葉についての思想がある。それは翻訳的な思想であると言ってよいだろう。そこから、移民であるとか、亡命や亡国のようなモチーフが入りこんでくる。

移民は一つの状況でしか使えない言葉を無数に覚えている時間はない。子どもの頃から根源的で多義的な単語を押さえておいた方がいいのではないかと思う。(35頁)

多和田において、翻訳は、自己の愉しみであると同時に、已むに已まれぬ現実でもある。それはまちがいなく、彼女の自伝的なところと深く結びついた感覚なのだろう。若くしてドイツに渡り、母語ではないドイツ語で(も)書くという決断をした作家としての多和田葉子の、誰かに強いられたのではなく彼女自身が選んだ移民的で亡命的な生と、根源的なところで響き合うものなのだろう。

しかし、翻訳にしても、言葉にしても、それは非ネイティブだけに課された重荷などではまったくない。ネイティブがデフォルトで、非ネイティブが異常や異端なのではない。ネイティブが自然な正義で、非ネイティブが不自然な邪魔者なのではない。非ネイティブにとっての必然であるが翻訳こそが、そのプロセスのもつ必然的な遅さやもどかしさ、複数性や多層性ゆえに、平和をもたらす。

 「翻訳」という言葉を聞くと二人の喧嘩の火はすぐに勢いを失ってしまった。翻訳しながら喧嘩するほどしらけることはない。(177頁)

 翻訳はさまざまな領域を旅することである。ひとつの言語からべつの言語を、同じ時代に属するひとつの言語からべつの言語へ、ひとつの時代に属するひとつの言語からべつの時代に属する別の言語へ。だから言語旅行は空間旅行でもあれば時間旅行でもある、翻訳はタイムトラベルを越えるものなのだ。それは、どこにもない場所、どこかにあるはずの理想の場所への旅であり、もしかすると、わたしたちはもうすでにその旅の途上にあるのかもしれない。 

ネイティブは日常、非ネイティブはユートピア。(220頁)