うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アガンベンの思考のスタイル:ジョルジョ・アガンベン、岡田温司訳『書斎の自画像』(月曜社、2019)

本は読まれるのではない。むしろ、時間を超えた記憶できないほど彼方の点から到来してくる、忘れがたくも散り散りの一連の思い出を通して、たどたどしく辿られるのである。/このようにして、わたしはいちばん愛読する本たちを読んできたし、再読している。(117頁) 

 

自伝とも回想とも言いがたい、自身の過去の書斎や読書や先生や友人たちについて綴られた本書を読むと、アガンベンが哲学者である以上に神学者なのではないかという気がしてくる。とはいえ、アガンベンの神学は、キリスト教のそれというわけではなく、むしろ、世俗の時代である近代のなかに現れた、べつのかたちの神学的な思考であるというべきだろう。アガンベンメルヴィルに惹かれる理由は、こう考えてみると、わりとすっきりと腑に落ちる。

 彼をもっぱら小説家として分類することがいかに片手落ちであるか、わたしは何度かこのことについて考えてきた。『白鯨』が小説として失敗作なのは明らかであるにもかかわらず、それをかたくなに文学作品の項目に入れようとするのは、批評kたちの惰性に過ぎない。実のところ『白鯨』は、一九世紀に書かれた神についての最も並外れた省察、つまり「神学大全」なのであり、イワン・カラマーゾフの「大審問官の説話」と悪魔の記述に匹敵するものである(いずれにせよ明白なのは、メルヴィルドストエフスキーが、神学に乏しい一九世紀で最も偉大な神学者だ、ということである)。」(51‐52頁)

彼は自らをエピゴーネンと定義づける。「語の字義どおりの意味で、わたしはエピゴーネンである、と。すなわち。他者から出発してのみ生まれ、この依存関係を決して否定しない存在である。こうして生きつづける。幸福なるかな後に生まれたる者。」(63頁)これは、強がりでも、ひねくれでもなく、本心からの言葉であるように聞こえる。

アガンベンは解釈者であり、先行するテクストに決定的に依存する(この意味で、アガンベンの立ち位置は、デリダというよりも、ド・マンに近いかもしれない。具体的なテクストがなくとも脱構築ができるデリダと比べると、自分は、テクストがなければ脱構築できない、とド・マンは『理論への抵抗』のなかに収められているインタビューのなかで述べていたはずだ)。

何のために解釈するのか。アガンベンの読解行為は、相手を打ち負かしたり、やりこめたりするような攻撃的なものではなく、協働的なものだ。

ある作家の限界や矛盾に気づいたと思われるとき、その無知について誤解していないかどうか疑ってみることは正しい。それゆえ、推定される矛盾を告発するよりもむしろ、わたしが好むのは、それら矛盾の背後で言われないままに残っているものを探すことである。それこそが理解するということであり、発展させるということだ。非人称という観念がこれにあたるように思われる。(75頁)

この態度はきわめてドゥルーズ的なものであるように思う。ところで、自身の知的な恩義について、美しく、そしてときに物悲しく――というのも、ここには、すでに亡き人々が含まれているからで、その筆頭にくるのは彼の先生のひとりであったハイデガーだろう――語るこの本は、なぜか、アガンベンにとって決定的であったはずのフランスの思想家たち(たとえばデリダフーコードゥルーズ)について、沈黙している。

アガンベンは、ゼロから独自の体系を作り上げるような書き手ではないし、そもそも体系を作り上げるというような一大プロジェクトに取り組む思想家でもないのかもしれない。たしかにアガンベンには大きな主題があるし、それに沿って繰り広げられてきた一連の著作群もある。だが、彼の思想のスタイルは、パーツをひとつひとつ組み立てて大きな構造を作っていくというよりも、断片のなかですべてを顕現させるというものかもしれない。その意味で、アガンベンが「名」にこだわるのはよくわかる。「言語活動は、ただ単に何かについて何かを言うためにあるのではなくて、むしろ名へと向かう緊張であり、ロゴスの終わりのない筋立てから名を解放することでもあるのだ。」(143頁)

神学的な方向性、断章的なスタイル、名=名詞に向かう態度、それはすべて、アガンベンが深く敬愛するヴァルター・ベンヤミンが持ち合わせていたものにほかならない。

アガンベンにとって、哲学をすることは、詩的なものである。それはなにより、形式のレベルで、表現形態のレベルにおいてのことだ。だから、アガンベンウィトゲンシュタインの「そもそも哲学は、詩のようにしか書かれえない」という言葉を引きながら、「形式の詩的問題」をクローズアップする(113頁)。とはいえ、これは内容のレベルにおいても当てはまる言明である。「わたしが哲学者になったのは、他のやり方では究明できないような詩的アポリアに取り組むためである。」(113頁)

哲学は詩ではないが、詩の問題――エクリチュールの問題、表象の問題――を引き受ける。哲学が詩のように書かれるべき必然性はないが、詩と手を切ることはできない。というのも、どちらも、言語を放棄することができないからだ。言葉は思考を裏切るかもしれないが、さりとて、言葉なしに哲学は成り立たない(分析哲学なら言語なしの哲学の可能性を模索するかもしれないが、それはアガンベンの選ぶ道ではない)。

もしも、たとえ志向がつねにエクリチュールに裏切られても、哲学はたやすく言葉を放棄できないとするなら、哲学者は、エクリチュールが声へと消えうせる地点、つまりあらゆる言表において決して書かれたことのない声――イデア――が追い求められる地点を探さなければならないだろう。イデアとは、意味作用のある言語活動が名において廃止される地点である。そして哲学は、声を前にして言語がないこと、言語を前にして声がないことをそのつど受け入れるエクリチュールである。(148頁)

これが不可能な試みであることは明白だが、この不可能性こそ、アガンベンが「詩的アポリア」と呼ぶものなのだろう。この本を読むことで、アガンベンの思想をつかむことは難しいが、アガンベンの考え方の癖やスタイルが、くっきりと浮かび上がってくる。