うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

渡邊守章の知情:クローデル『繻子の靴』

2018年6月9日@静岡芸術劇場

渡邊守章が岩波の解説部分で書いていたけれど、4日目こそがクローデルの作品の前衛性であり、あそこが60年代の不条理劇やナンセンスを先取りしているのだというのはそのとおりであるし、あそこがあるから、劇がたんなる宗教劇的なもの以上の何かになっている。だから、あれはあれでいいのだと思う。

4日目がないと劇が重たすぎるだろう。幕切れのところの滑稽さのなかの解放(ロドリゲスもプルエーズも約束に縛られることで愛をかなえることができなかったし、会うことを選ぶことができなかったし、会おうとしてもすれ違ってしまったというのに、プルエーズの娘にしてロドリゲスが養育した七剣姫は、実母とも養父ともちがい、あっけらかんと愛する男のもとに出奔し、成功してしまう――ここには親世代とはまったくべつの可能性がコミカルに開かれていくし、だからこそ最後でロドリゲスが「解放された」と口にすることができたのではないか)は、劇全体を締めくくるうえで圧倒的なカタルシスをもたらしてくれている。

 

個人的に剣幸の演技は買わない。彼女が圧倒的にうまいのはわかる。抜群の安定度であるし、とても巧みだとは思う。しかし、クローデルのこの劇においては、演技があまりに世俗的すぎるように感じた。

クローデルの演劇世界は、つねに別の世界に通じており、あらゆる感情は彼方の世界を経由することでこの世に顕現するという仕組みを持っている。

『繻子の靴』はカトリック的な劇なのかもしれないが、にもかかわらず、ここにはいちどとして「神」が現れない。登場するのは「守護天使」だけで、あとは、「月」というキリスト教的というよりはむしろ神話的な装置だ。

しかし、ここに神そのものが登場しないとしても、愛や約束という概念は、超越的な神という存在を想定しないことには理解できないだろう。つまり、登場人物のあいだの情念や拘束は、たんに二人のあいだのことがらではなく、来世のことや彼岸のことがつねに入りこんでくるわけである。もちろん精神と肉体のような二元論もあるが、それはつねに、此岸と彼岸という別の垂直的原理と重ね合わせられており、この重層性からくる引き裂かれが、あの劇の登場人物たちにほとんど宿命的な悲劇性を付与している(そして、七剣姫にはそうした悲劇性という重みがないからこそ、軽やかなのだ)。

剣の演技を買わないのは、この世の枠内で演技をまとめすぎているように感じたからだ。彼女の演技は決して広がっていかないし、突き抜けていかない。それはもしかすると、宝塚のようなロングランのところで培った俳優としての防衛本能、プロフェッショナリズムの結晶なのかもしれない。しかし、彼女の場合、内面と外面がつねにあまりに綺麗に整合しすぎているし、そのまとめ方があまりに此岸的で、カタルシスを感じられなかった。3日目の二重の影という場だったか、守護天使が舞台3段目から一番下まで降りてきて、ついにプルエーズとほとんど語り合うところでも、剣の演技は落ち着きすぎているように感じた。完成度は高い。それは間違いない。しかし、悪く言えばひとりで完結してしまっていた。劇空間のなかに言葉や身振りが溶けていかなかった。

なんといえばいいのか、彼女の演技は輪郭がはっきりしすぎていて、役柄そのものを見ているというよりは、役柄を演じている剣幸という女優を見せられているという印象が最後まで拭いきれなかった。

  

阿部一徳の演技は、やや力み過ぎという感じがした。そして彼も剣とは別の意味で、クローデルの劇世界を体現するにはミスマッチではないかという気もした。

彼が抜群に優れた俳優であることはこのあいだ見た『マハーバーラタ』でも『オセロー』でもわかっていたし、今回見て、やはり傑出した演技者であることはわかった。しかし、内面的なものや心理的なものをあえて切断して外面的なところを磨き上げるという彼のやり方――セリフの意味と音律を意図的に切断し、音色やフレーズ感を極限まで磨き上げることで、意味的なものをいわば外側から人工的に達成するというやり方――は、クローデルと微妙にそりが合わないように感じた。

 

 個人的に非常に高く評価するのは、カミーユ役(+スペイン王役+4日目幕切れの船乗り(七剣姫の手紙を読んでいた人物))だ。彼はたしかにセリフの発音に癖がある(意図的なのかわからないが、息が抜けるというか、つねに「シュ」というような促音が残るというか)し、出来不出来のあるタイプの役者かもしれないが、上で書いたようなクローデルの劇世界の分断や矛盾を体現するやり方としては、彼のような演技が個人的にはもっともふさわしいと思ったし、実際、成功していた。

 

ロドリッグ役の俳優もとてもよかったと思う。1日目2日目あたりはいまひとつかと思ったが、3日目はとてもよかったし、4日目は圧巻の出来だった。沈み込んでいくような下方向の運動と、解き放たれていくような上方向の運動の二重性、それから、絡み合ったものがほどけていくような、解放はされていくが強度や密度はむしろ高まっていくような不思議な高揚感が、とても素晴らしかった。

  

役者の出来不出来というのはたしかにあったと思う。コミカルな役をやっていた若手俳優は、初日だったせいもあるのか、力演ではあったが力み過ぎで、上滑りしてしまっていた気がする。

 

ドニャ・ミュジークの女優はおそらくよく考えたうえであの演技なのだと思うし、そういうやり方をする理由がわからないわけではないが、個人的には好みでなかった。

 

七剣姫はところどころでセリフをとちっていたが、とてもうまくはまっていた。

 

 

渡邊守章岩波文庫の解説でいろいろと書いていたが、日本語で西洋語の韻文劇を上演することの難しさはひしひしと感じる。フランス語なら韻律があるから、セリフをただ音にするだけである種のリズムやフレーズが生まれ、そこに音楽が発生する。しかし日本語翻訳ではとてもそうはならない。韻文がもはや生理的にアピールしない現代日本語においてはなおさらそうだと思う。だから、訳者の訳し方云々よりも究極的にはパフォーマンスのやり方のほうに良し悪しが委ねられてしまうし、それはつまるところ訳者の言語感覚の繊細さや演奏能力の巧みさにかかってしまっている。

フランス語の自由韻律/韻文の日本語訳の上演は、どうしても「不自然」なものにならざるをえないし、その不自然さをどうやって不自然なまま自然なものとして提示するのか、という不可能な挑戦なのだと思う。

個人的に剣をあまり評価しないのは、彼女の場合、不自然なところがあまりに自然な感じにならされてしまっていて、すべてが「普通」に聞こえてしまうからだ。

もちろん本質的に不自然さの残っている日本語をすべて自然なセリフとして言えてしまうというのは、彼女の卓越した演技能力のなせる荒業ともいうべき超絶技巧なのだろうし、彼女のなかでプルエーズという役柄を完全に消化していることの表れでもあるのだろうけれど、すべてを地上に引きずり下ろし、ほとんど自然主義的な心理主義でやってしまっている彼女の演技は、わかりやすいけれど、劇からはズレているように思う。

不自然なところを自然に出すという点では、ロドリッグとカミーユ役の二人が非常に巧みだった。阿部の場合、不自然なものを不自然なままストレートに出しすぎだったのではないかという気がする。もちろんそれが阿倍の持ち味であるけれど、やはりこれも、劇とはズレているように感じた。

 

あまりきちんとは理解していないけれど、日本の伝統芸能と戦後演劇とアカデミズムのあいだには、何かしらの蜜月関係があったのではないか。東大の表象が体現していたように、そこでは、日本の伝統芸能(たとえば能)を世界の文脈で位置づけ(能の現代性、日本の美的感性や表象実践のモダニズム性)、それをパッケージ化して世界に売り出したり(狂言化したシェイクスピアシェイクスピア狂言化)、それを実践する人間との共同作業をやったり(たとえば野村萬斎河合祥一郎のコラボレーション)。しかし、個人的に能や狂言がよくわからないからというのもあるけれど、これがどこまではまっているのか、いまいちピンとこないし、妥当なやり方なのかまるで確信できないでいる。

たとえば口上役の野村萬斎は、それだけ取り出してみれば巧みであるし、とてもうまい。セリフの節回しにしても、体の使い方にしても、伝統を踏まえたうえでの現代性なのだろうし、見事なものだとは思う。しかし、あれが西洋近代とフィットするかというと、どうなのか。

 

クローデルの場合、このあたりの事情はかなり複雑だろう。彼自身、アジアや南北アメリカ、東欧を外交官としてめぐっているし、オリエンタルなものは、知識だけではなく実地で知ってもいた。

その意味で、クローデルにはオリエンタリズム的なものに吸収されないだけの強さがあるし、オリエンタルなものを単なる借用だとかインスピレーションだとかというようなものよりはるか上のレベルで自らのテクストにとりこんでいる。だからこそ、クローデルの上演に、彼がまちがいなく参照したであろう能の技法を再還流してみるというのは、きわえて妥当なやり方だとは思う。

しかし、だとしても、世界における(そしてここでいう世界というのは、ヨーロッパのことでしかないし、さらに言えば西ヨーロッパのことでしかない)日本のようなものを前面に押し出すようなやり口は、何かすごくズレているような気もしてならない。

 

渡邊守章の演出にたいする疑問も、微妙にある。渡邊守章はやはり、学者的演出家であって、そうあることしかできないのではないか。

彼の演出がおそろしく上質であったことは間違いないし、細部までよく考えてある。おそらく背景のひとつひとつ、小道具のひとつひとつにいたるまで、理論的に説明できるだけの膨大な厚みがあるのだろう。異常な量の岩波文庫の訳注がそれを端的に証明している。しかし、そうした学問的精緻さが、演劇的カタルシスに直結していたかというと、そんなこともなかったと思う。

わたし自身、アカデミズムにいる人間だから、このジレンマはよくわかる気はする。知識的正確さと情動的インパクトの二者択一を突きつけられたら、本能的に前者を選んでしまう。しかし、やはり芸術においては、ときに知識を裏切り、直感やビジョンに賭けてみなければいけないのではないか。

 

要するに、すべてがあまりに精巧に練り上げられすぎていて、逆に全体がのっぺりしてしまっているように思われたのだ。クライマックスを作るということ、どこかに収斂させること、どこかで解放させるということは、意図的に密と疎なところを作り出すことだと思うのだけれど、この手抜きではない抜き、意図的な薄さのようなものが、今回の上演には欠けていたと思う。

おそらくコミカルなところではもっとコミカルに、軽いところはもっとくだらない感じに、重いところはもっと重たく、というようなメリハリが必要だったのではないかという気がする。

 

その意味で、宮城聰は生粋の演劇人であり、学者ではなく演出家なのだということを、今回つくづく感じた。このあいだの『マハーバーラタ』は、ところどころで今一つなところもあったし、細部の演出の徹底という意味ではいろいろ甘かったり抜けていたりという印象がないわけでもなかったけれど、全体として見ればひどく納得させられる上演だった。

 

知がない表象は愚かではあるけれど、知が勝ってしまう表象は賢しすぎるということを、今回つくづく思い知った。そしてそれは、知を超えた何かをもたらそうとするクローデルのような演劇の場合、致命的であったように思う。