うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

チェーホフとジャンヌトーの『桜の園』についていくつか思い出したこと

20211123/28@静岡芸術劇場

ダニエル・ジャンヌトー演出、チェーホフ桜の園』@静岡芸術劇場

桜の園』はチェーホフが言うように本当に喜劇なのだろうか。ロラン・バルトは「現実効果」と題されたエッセイのなかで、フローベールの短編「純な心」の冒頭で記述される晴雨計は、物語のプロットを進めるうえでは何の機能も果たさないが、部屋にそのようなものがあると読者に告げることによって、物語の場の真実性を高める効果があるというような議論を展開していたはずだが、それはつまり、物語には、プロットのために要請される細部と、そうでない細部が共存しているということでもある。たとえば、whodunit(誰が犯人か?)という謎にすべてが賭けられている古典的探偵小説では、あらゆるディテールが物語に奉仕する構成になっているはずだ。細部はすべて物語的に回収されるだろう。冒頭でピストルが描写されるとしたら、それは物語のどこかでピストルが使われるからにほかならない。謎の解明のためになにかしらの役割を果たすからにほかならない。

執事のエピホードフが肌身は離さずピストルを持ち運んでいると1幕で言うとき、わたしたちは暗黙の裡に、このピストルが劇の後のほうで使われるのではないか、しかも、自殺願望をほのめかすような彼の言葉と相まって、なにか悲劇につながるような使われ方をするのではないかと思ってしまうところだが、彼のピストルは誰も殺さないまま、劇は幕を閉じる。その意味では、チェーホフは悲劇的な伏線を張りながら、それを回収していないと言えるし、それを喜劇的な方向にも役立てていないとも言える。ピストルはバルトが言うところの「現実効果」のためのディテールであり、エピホードフというキャラクターの実存の不安の表象であり、精神の関節が外れていることを観客に伝えるためのギミックにすぎないということになる。

桜の園』の舞台では、誰も死なない。たしかに死者の影は色濃い。ラネーフスカヤの長男は「桜の園」で溺死しており、それをみずからの不貞にたいする罰と捉える彼女の呵責の念は、劇に暗い影を投げかけている。トロフィーモフは「桜の園」を奴隷的労働の象徴とみなし、何世代にもわたる農奴の亡霊を見る。しかし、誰かが殺されることはない。しかし、誰も死なないから悲劇ではないとは言えないし、誰も死なないから喜劇であるとも言えない。

 

結婚プロットは成就しない。召使の側(エピホードフ、ドゥニャーシャ、ヤーシャ)でも、中間層(ロパーヒン、ワーニャ)でも。そして、主人の側でも、愛情関係は宙吊りにされたまま、解決にいたらない。ラネーフスカヤは最後で不貞な恋人のいるパリのもとに戻ることになるが、それが幸福な解決に至るだろうという期待を、わたしたちは持つことができないだろう。

結婚プロットは劇のなかで何度も言及されるにもかかわらず、進展がない。愛情関係は宙吊りにされたままで、関係をねじれさせるドタバタ劇もなければ、関係を大団円に導く和解もない。その意味では、たとえばボーマルシェの『フィガロの結婚』のような幸福な喜劇、終わりよければすべてよしタイプの喜劇とは質的に大きく隔たっている。

 

おそらくピーシクの身に起こることだけが、喜劇的な響きを持っている。借金で首が回らず、手当たり次第に無心する。すげなく断られてもめげることがなく、金額を譲歩しながらどうにかして金を借してもらおうとする。そして、かつてそうだったように、思わぬ幸運が転がりこんできて、彼は救われる。彼の土地の資源に目を付けたらしいイギリス人が数十年という契約で土地を借りてくれることになり、晴れて借金を清算できると喜び勇んでピーシクは言うが、21世紀に生きるわたしたちは、このような土地リースこそ、環境破壊や植民地的収奪につながりうる忌まわしいものだということを、よく知っている。その意味で、ピーシクの最終的な救済は、現代的な視点からは、悲喜劇にしか映らない。

 

笑いはあるが、その笑いはどこか痛々しい。ジャンヌトーの演出がそうした側面を増幅させていたというのはある。ジャンヌトーの演出だと、すべてのキャラクターが、すこしずつなにか壊れているという印象を与える。歯車がすこしズレている。誰もが誰とも嚙み合わない。キャラクターたちが対話のシーンにおいて正面から向き合い、静止して集中して話を聞くことができず、そっぽを向いたり、寝そべったり、歩き回ったりしてしまうのは、演出家のチェーホフ解釈の現れなのだとは思うけれど、それは同時に、チェーホフのテクストにつねにすでに走っていた亀裂である。

 

俳優たちの演技が、ある意味とても「イタい」感じのものであったのが、よかったのかよくなかったのか。チェーホフではロシアの歌が口ずさまれるところが、スピッツの「チェリー」に置き換わっていたのは俳優のアイディアらしいが、曲名にしても、歌詞にしても、『桜の園』とうまくハマっていたのは事実ではあるが、同時に、懐メロめいた感じもしたところではある。

若い召使たちは、3人とも、日本人俳優が演じていたが――エピホードフは加藤幸夫、ヤーシャは大道無門優也、ドゥニャーシャは山本実幸―—、加藤のおどおどした感じ、大道無門のふてぶてしい感じ、山本のうわついた感じは、なるほどきわめてうまく作りこまれてはいたものの、いかにも芝居らしいわざとらしさが感じられた。

加藤の「イタさ」はきわめて巧みではあったし、エピホードフはそのような惨めさ、自身は真面目なつもりなのに周りから物笑いにされてしまうような可哀そうな人物なのかもしれないが、そこには何かしらのプライドも込められているキャラクターではないだろうか。加藤の演技は、身体の引きずり方、身体の持て余し方にしても、なんともイケていない服装にしても、日本的な陰キャという感じで、そういうものとしてはひじょうにすぐれた演技だったとは思うものの、それでチェーホフ=ジャンヌトーの求めるものにフィットしていたのかというと、どうだろうか。

山本にしても、従順さと反抗心、上の人間や惚れた相手にはいい顔をし、下に見ている人間や同僚にたいしてはぞんざいな振舞いをするドゥニャーシャという二面性のあるキャラクターをうまく演じてはいたけれども、その造形には、悪く言えば、漫画的というか紋切り型的なところもあった。しかし、存在の不安を発散させるかのような肉体の痙攣はジャンヌトーの演出プランと見事に合致していた。いまひとつなキャラクター造形を身体的表現によって補填していたという意味では、大道無門も同じようなところがあった。

アーニャの布施安寿香も、1幕では天真爛漫な幼さを演出しようとするあまり、過剰なキャラづくりに陥っていたように感じたし、トロフィーモフの観念的理想主義にどう応えるのか――直感的に真実を見抜く純真な子どもとして応えるのか、直感だけではなく知性をも動員できる成熟した大人になりつつある成長期の子どもとして応えるのか、それとも、自らの理性を十全に生かすことができる(カントのいう啓蒙の条件の充たした)成年に達した大人として応えるのか――ということになると、いまひとつ焦点が定まっていないように思われた。昨年のシーズンの『ハムレット』のオフィーリアがダブって見えてしまう部分があった。その一方で、ワーニャとの対話のシーンではきわめて安定した、幼すぎもしなければ老成しすぎてもいない、ちょうどいい塩梅の演技になっており、全体をとおして考えると、いまひとつ中軸が定まっていなかったのではないか。

 

鈴木陽代は、いい意味で空気の読めない「不思議ちゃん」な感じのキャラクターを演じており、ラネーフスカヤという女性のある種の年齢不詳さ――というよりも、彼女は年齢のような数量的に測れるものを超越しており、情熱や情念のような精神的なものの強度によって規定されるキャラクターと言うべきかもしれない――を体現するうまいやり方ではあったと思う。

しかし、その一方で、チェーホフの演劇世界において前提とされている階級的な上下関係、垂直関係が、フラットなものになってしまっていたきらいはある。たしかに鈴木の演技にナチュラルな鷹揚さはあった。しかし、自身の階級的な優越性を信じて疑わないことから出てくる絶対的で無意識的な上から目線ではなく、社会的な人間関係をむき出しの個人と個人の1対1の関係と見るなかでの相手へのぶしつけさやわがままの現れになっていたように感じた。

とはいえ、そのような演技だったからよくなかったという意味ではなく、たとえば3幕でのトロフィーモフとの愛をめぐる対決——愛を超越していると言い募るトロフィーモフを糾弾するシーン――におけるデモーニッシュな追い込みは、トロフィーモフを潜在的に対等な存在とみなしたうえで、無慈悲に切り込むという態度あってこそのものであった。

ただ、そのように体当たりな一回的な演技になった結果、ラネーフスカヤというキャラクターが、もしかするとチェーホフが意図した以上に気分屋な感じになってしまった部分はあった。鈴木のラネーフスカヤは、情念的なところが色濃く、幕によってまったく別の顔を見せていた。3幕の不安、4幕の追憶は、それぞれ別のものとして観れば、素晴らしいものだったかもしれないが、全幕をとおして考えると、統一的というよりは分裂的であるように思う。もちろん、キャラクターのある種の狂気や自己不同一性を抉り出すことがジャンヌトーの演出のモチーフであったようには思うし、その意味では、鈴木のラネーフスカヤは見事にその任を果たしていたとも言えるのではあるけれど、あくまで個人的な感想を言えば、なんともいえない違和感が残っている。

 

ガーエフの阿部一徳は、喜劇的な滑稽さと、コミカルなシリアスさをうまく同居させる演技ではあったが、妙に派手な衣装――ピンク色の柄物で、わりと体にぴったりとした仕立て――と相まって、喜劇的な側面が強く出すぎていた。昨年のモリエールの『病は気から』を観ていたせいか、チェーホフのキャラクターというよりも、モリエールのキャラクターであるように感じてしまった。

 

日本人俳優のある種のブレ――キャラクター造形の定まらなさ、言葉と肉体の不一致――に比べると、フランス人俳優にそのような揺らぎはなかった。ロパーヒンのカンタン・ブイッスーは、周りに合わせるというよりも、独りで突っ走り気味という感じもしたが、ロパーヒン自体がそのような拙速さや性急さを抱えたキャラクターであることを思えば、あれでよかったのかもしれない。

ワーニャのソレーヌ・アルベルは、あまり目立たない感じではあったが、裏を返せば、彼女の派手さのない地道な安定感があればこそ、それ以外の俳優たちの演技が揺らいでも舞台がきっちりとまとまっていたのかもしれない。

フィルスのアクセル・ボグスラフスキーも、ベテランの妙技とでも言おうか、周りに合わせつつも、演技の芯は決して揺らぐことがなかったように感じた。

トロフィーモフのオレリアン・エスタジェは、基本的に日本語を話しつつ、フランス人俳優との対話ではフランス語にスイッチしており、彼一人がバイリンガルな舞台のなかでフランス語と日本語を行き来する唯一の存在であった。とはいえ、かといって、彼がフランス側と日本側の橋渡しになっていたわけではない。トロフィーモフがそもそも、和解的なキャラクターではなく、異議申し立てをして場をかき乱すような存在だからというのもあるけれども、彼の日本語とフランス語の使い分けにどのような演出的意図があったのか、いまひとつ理解できなかった。

 

通りがかりの男を演じた大内米治は、もっと舞台の時間を異化し、まさに異次元のような異空間を作り出せたと思うのだが、彼の肉体がそれほどのスローモーション化には抵抗していたように見えた。退場のシーンでは若干重心が高いというか、身体の重みが不充分であるようにも感じられたが、もしそこまでやっていたら、舞台が壊れてしまっていたかもしれないので、あれでちょうどいいぐらいだったのかもしれない。

 

フランス語と日本語による対話は、俳優にしてみれば、なかなか大変なことなのだと思う。俳優たちがどのぐらいまで相手の言語を理解しているのかはよくわからないが、観客として見るかぎり、他言語にたいする合わせのスキルには、わりとバラつきがあった。

異言語間の対話であるという違和感を与えさせなかったのが、ガーエフの阿部とフィルスのボグスラフスキーという大ベテランの2人であったのは、当然と言えば当然かもしれないが、それは彼らが、対話を意味内容の交換以上のものとして演技することができるからだろうか。ピーシクの小長谷は、それほどフランス語と絡んでいたわけではないけれど、誰のフランス語ともスムーズに会話の呼吸を合わせていたと思う。

アーニャの布施とワーニャのアルベルのコンビはきわめてスムーズなやり取りになっていたが、ドゥニャーシャの山本とロパーヒンのブイッスーはいまひとつかみ合っていないように感じられた(2回見たが、1回目は1幕冒頭のやり取りがひじょうに不器用に感じたのだけれど、2回目はわりとうまくハマっていたことも付け加えておく)。

ラネーフスカヤの鈴木は、自分が合わせるというよりも、相手に合わせさせるという感じで、それが彼女のナチュラルな、空気が読めない鷹揚さにつながっていたのではないかと思う。

 

つまるところ、ジャンヌトーはどこまで日本人俳優によるキャラクター造形に介入したのだろうかと思う。こう言ってみてもいい。おそらく彼は身体的な側面、肉体の使い方については指導をすることができたのだと思うけれど、日本語のセリフのディクションについては踏み込むことができなかったはずであり、その結果、日本語のセリフの言い回しによるキャラクター造形が俳優たちの裁量に任されてしまった側面が大きいのではないか。そのあたりが、フランス人俳優のキャラクター造形のブレのなさと、日本人俳優の肉体的なところと言語的なところのある種のズレにつながってしまったのではないか。あくまで個人的な憶測ではあるけれど。

 

この演出では、舞台が凸型になっていて、舞台前方と舞台後方が低くなっている。低くなった舞台前方の真ん中に字幕が出る。そして、舞台後方の凹みは、3幕の舞踏会のシーンではオーケストラピットのような役目を果たす。しかしこのように高低差で区切られた3つのスペースの真の目的は、分業のためではなく、ひとつの舞台のなかに複数の時間の流れを持ち込むためのギミックではなかったかという気がする。

ジャンヌトーは、対話のシーンで、対話の緊迫感をあえて撹乱するかのように、俳優を動かす。その結果、観客は話の内容に耳を傾けながら、舞台の上を移動する俳優の身体の動きに目を奪われ、耳は意味に集中しながらも、目はそれと必ずしも関係のない動作に惹きつけられ、フォーカスを固定化することを禁じられるのだけれど、高低差のある舞台は、そのような効果を高めるために使用されていたように思う。たとえば2幕のシャルロッテの独白は舞台前方で行われるが、そのとき、エピホードフたちは舞台の高いところにいる。高低差は、シャルロッテと彼らたちの心理的な距離をはっきりと視覚化する。また、3幕で、舞台後方で、俳優たちが踊るように舞うようにして打楽器をゆらゆらと動かしながら行き来するとき、舞台の高いところではラネーフスカヤが不安を覚えながら競売の結果の知らせを待っている。ラネーフスカヤのまわりは動きがないが、舞台後方はずっと下手から上手へ、上手から下手へと、動きがある。舞台の高いところと低いところで、別の速度が提示されると、スローモーションとノーマルスピードが同時で再生されているような、不思議な情報過剰状態が出現し、観客の感覚がマイルドに撹乱される。

複数の速度、複数の時間感覚の同時使用が、ジャンヌトーの演出の重要な一部であった。