うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

長さの必然性(フレデリック・ワイズマン『ボストン市庁舎』)

長い。274分に及ぶこのドキュメンタリーを見てそのような印象を持たない者はいないのではないか。もちろん、この長大さを「長すぎる」とネガティヴに捉えるか、「長いにもかかわらず」と留保をつけるか、「この長さだからこそ」とポジティヴに捉えるかは、人それぞれだろう。しかし、この長さには直感的にたじろがされるものがある。

『ボストン市庁舎』は、トランプ政権の分断と専横の時代における、多様性と対話の可能性を提示しようとしていると言ってよい。本ドキュメンタリーの主役ともいうべきボストン市長マーティ・ウォルシュは、トランプが統べるワシントンを舌鋒鋭く批判し、市から国を変えていこうという力強いメッセージを発し続ける。アイルランド系移民の息子で、アルコール中毒のサバイバー。人の弱さを我が身をもって知っている。だからこそ、互いに頼ること、人の話に耳を傾けること、人と人をつなぐことを、市政のコアに据える。

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このドキュメンタリーにはプロットやナラティヴと言えるものはない。高層ビルを見上げるショット、湾岸を見渡すショット、ボストンの何気ないストリートを流すショット、そういった人気のない風景が間奏曲となり、ある程度の長さのスピーチが続くシークエンスが組み合わさっていく。ホームレス問題、住宅問題、開発と環境の問題、中小事業主への説明会、フードバンク関連の式典、ボストン・レッドソックスの優勝パレードの警備、退役軍人の会などなど。それらをひとつの営為にまとめあげるのは、ウォルシュが言う、相手に話しかけ、相手の話を聞く態度であり、多様な意見をすくいあげ、できるかぎり公明正大なかたちで、できるかぎりコミュニティに暮らす人々のためになるようなかたちで、それらを市政に反映させていこうという姿勢である。ここに登場する市の関係者たちは、言葉の正しい意味で、公僕であろうとしているように見える。

しかし、これらのシークエンスは市政を網羅的にカバーするものではないだろうし、そもそも網羅的であることを目指したドキュメンタリーではない。市政のこまごまとした日常を写し取ること、そして、そこでどのような理念が脈打っているのかをスクリーン越しに感じさせること、それが『ボストン市庁舎』のねらいではないか。その意味では、このドキュメンタリーが市民からの様々なリクエストや問い合わせの電話に応えるコールセンターのシーンで始まり、終わるのは、きわめて象徴的だ。

物語を語ること、それがこのドキュメンタリーのすべてであると言ってもいい。そして、そこで重要になるのは、物語の内容だけではない。誰が語るのか、どのように語るのか、という点だ。語る人の生のプレゼンスが圧倒的なオーラを放ちうることを、『ボストン市庁舎』は何度も何度もわたしたちに示していく。まさにそこにこそ、これが映像と音をともなうドキュメンタリーでなければならない理由、純粋な文字テクストでは不十分な理由がある。

映像はことさら美しくあろうとはしていない。それどころか、一般的な報道映像の基準んからするとノイズのようなものが混じっている。カメラの前を人が横切ることがある。さまざまな人々が雄弁に語るが、カメラを見つめて話す者はいない。スクリーンに登場するのは、たしかに余所行きの姿ではあるかもしれないが、偽らざる姿、その場に同席した人々が実際に目撃したありのままの姿である。ワイズマンのカメラには、市政の活動を報道するメディアの人々の姿も映し出される。『ボストン市庁舎』は加工されていない声や姿を届けようとしている。*1

ワイズマンのドキュメンタリーが長いのは理解できる。わたしたちの日常に起こる出来事は、それがまさに起こっている瞬間には、大きな物語には回収されていない。物語はいわば事後的に、遡及的にしか、語ることができないはずだ。ワイズマンは、このドキュメンタリーのなかで、自らの物語を語る人々を数多くスクリーンに映し出すが、その一方で、彼自身の物語を提示することは慎み深く退けてもいる。その結果、彼のドキュメンタリーは、ナラティヴそのものではなく、そこからなにかしらのナラティヴが編み出されるかもしれない生の素材の集積のようなものになる。彼の映像の長さを正当化するのは、そこに映し出される現実や事実の重みである。

 

政治的な映画なのだろうか。『ボストン市庁舎』が政治的なものを扱っている映画であることは確かだ。明確な政治的メッセージが語られていることも確かである。そのメッセージが反トランプ的なものであることに反対する者はいないだろう。しかし、そのようなメッセージ性を前面に押し出すためにこの映画が作られたと考えるのは、正しくないように思う。すくなくとも、ワイズマンはボストン市政をすべてにおいて完璧な理想像としては描き出していない。

ドキュメンタリーの終わり近くのシークエンスであるタウンホールミーティングのシーンでは、市政の理想、業者の利害、市民の希望が衝突し、不穏で険悪なムードになる。開発が進まない貧困地帯にマリファナ・ショップを開こうという計画は、治安の悪化や予期せぬ問題の勃発を危惧する地域住民の疑問や反対に遭遇する。事業主のほうは、「わたしはコミュニティを発展させることにパッションをもってコミットしているが、この集会を開いているのは市がそうしろと言うからだ」という本音と建前の両方を、やや投げやりに、やや捨て鉢な感じに言い放つ。同席している市の役人は、「こういう集会を重ねることで、みなさんの声をすくいあげていきたい」となだめるように介入する。しかし、裏切られてきた住民たちの不信は根深い。

市政から取り残されてきた市民たちの声が語る物語は、下からの試みに見えたボストン市政にしても、上からの押し付けのような側面が依然としてあること、どれほど多様性を重んじようとも、アメリカのような多民族的で多言語的な社会では言語的コミュニケーションの齟齬がどうしても発生してしまっていることを、明るみに出す。それは、もしかすると、資本主義的な利害と民主主義的な理念のあいだの、原理的に解消不可能な軋轢が表出する瞬間を捉えていたのかもしれない。

 

『ボストン市庁舎』が示すのは、21世紀のポピュリズム権威主義の時代における、多元主義的な民主主義の理想的な可能性のひとつのかたちである。唯一の理想ではなく、複数あるはずの理想のひとつの可能性。

それを感じ取るために274分の映像を体験することが必須であるとは思わない。しかし、この問題を考えるための最良の入口のひとつではある。わたしたちの社会的で政治的な想像力の地平を拡げる力がある。

 

*1:しかし、ワイズマンのカメラをさらにメタ化、相対化するような、視点はこのドキュメンタリーには存在しないことも指摘しておかなければならない。彼が提示するのは、たしかに、ボストン市政の真実かもしれないが、真実そのものではありえない。または、彼の提示するのは紛れもない事実ではあるが、その事実はすべての事実ではない。どれほど網羅的であろうとしても、どれほど未編集的であろうとしても、必然的にこぼれおちるものはあるし、必然的に編集はなされる。人々が語るシーンは、できるかぎりノーカットで、あまりカメラを動かさないという方針が全編にわたって貫かれているようだが、だからこそ、時折はっきりと加工された映像になると――たとえば、湾岸を移すショットでは性急に移り変わる箇所がある―――違和感を覚える。その意味で、間奏曲的な風景シーンと、人々が語るシークエンスのあいだに、微妙な断絶があるように感じた。