うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

記憶と回想の絵物語:オマール・ポラス『虹のローブ』

20200503@ふじのくにせかい演劇祭

8分と少しのオマール・ポラスの映像は、記憶と回想の絵物語になっている。東日本大震災直後の演劇祭のために訪れてくれた静岡に捧げられオマージュであると同時に、出奔した祖国コロンビアへの想像的な帰還であり、自由の領域である演劇と劇場に導かれた自らの道程をめぐる感謝の告白でもある。言葉遊びや連想で繋がれていくイマージュが、わたしたちを、時間も空間も飛び越えていくオマールの旅の同伴者にしていく。

そのような想像のなかでの象徴的な旅物語のためにポラスが選んだメディアは、きわめてローテクだ。静かなピアノをバックにビオラが奏でるセンチメンタルな旋律。ポラスの朗読。そして、壁に掛けられた浮世絵や、床に置かれたスケッチを、スマートフォンのカメラでポラス自ら撮影している。4分をすこし過ぎたところ、ポラスの祖国コロンビアの地図が映し出されるとき、額縁のガラスに反射しているポラスの姿が見えるし、反射していることに気づいたポラスがわたしたちに手を振っているのが見える。

このプリミティヴな表現は、現在の状況に強いられた側面もあるのだろうけれど、ポラスが意図的に選び取ったものであるようにも思う。彼のスケッチ帳から取られた絵は、どこか絵本の挿絵のようなおもむきがあるし、だからこそ、透視図法とはべつの空間表象技術を用いる奥行きのない浮世絵と、シームレスに繋がっていく。ナスカの地上絵のような線画、ビビッドな色使いの挿絵が、シークエンスのなかでひとつになる。映像のなかで日本的なイマージュと南米的なイマージュとの出会いが起こる。

浮世絵から始まる映像パフォーマンスは、絵巻物のようでありながら、それよりはるかに自由だ。たしかに基本的なカメラの動きは、左から右へ、上から下へとなっている。壁に掛けられた浮世絵が2013年の静岡を象徴するものであるとすれば、床に置かれたスケッチは彼の幼年時代に属するものなのかもしれない。しかし、ときに絵は渦を巻くように置かれていたりするし、クローズアップや引きがあったりするし、カメラが絵を追うように上へと上っていく。加速していくカメラのスピードは、演劇と劇場という翼を見つけて飛翔していくのポラスの生とシンクロしているのかもしれない。

翼や飛翔は、全体を貫くライトモチーフであるように思う。そのなかでもひときわ目を引くのは、映像の真ん中あたりで語られる、学校でのある日の出来事だ。しかし、先生に、赤い鼻を付けられ、色鮮やかなスカートを着せられたとポラスが語るとき、その声に怒りや悲しみのトーンはない。皮肉もない。黒い背景に浮かび上がる白い線。緑色のスカート、手の代わりの翼、赤い鼻、とさかのように生えそろった白い髪。「Merci. Merci Professeur. Du fond du coeur, Merci」と口にするときのポラスは本心を語っているように聞こえる。まるで、翼と飛翔を手に入れた悦ばしいエピソードであるかのように。

しかしそのカメラが下に下り、べつのパネルが映し出されるとき、宙に浮かぶ天使のような存在の足元に置かれた、青い草むらと木のそばに横たわるやせこけた半獣半人のような白い体をわたしたちが目の当たりにするとき、ポラスの映像パフォーマンスに充ちている妖怪的なものに否が応でも気づかされる。

しかしこの妖しさは、決してわたしたちを拒むものではない。なぜならそれは、わたしたちの世界のなかにつねにすでに存在している異界的なものだからだろう。ジークムント・フロイトのいう「不気味なもの」――かつてはごくごく身近にあったにもかかわらず、その記憶が失われてしまったがゆえに、それがいまここに回帰してくると薄気味悪く感じてしまうのだけれど、本当は懐かしいはずのなにか。

コロンブ(鳩)、コロンビーヌ(コメディア・デラルテにおけるピエロの愛する人)、コロンビア(彼の祖国)、コロンブスアメリカ大陸を「発見」したヨーロッパ人)。イマージュが加速度的に横滑りしていく。白いページに描かれた天使(堕天使?)の余白に塗りつけられた赤、赤い背景のスケッチに描かれた軍服のヨーロッパ人は、西欧近代による植民地の虐殺的収奪を暗示しているようにも見えるけれど、ポラスのトーンに怒りが混ざることはない。もの悲しさがつねにある。

だからこそ、演劇と劇場を語るときのポラスの声にきざす希望の光に、わたしたちは思わずはっとさせられる。ポラスにとって、演劇=劇場(テアートル)は、異界につうじる扉であると同時に、自由の実験場なのだ。ありとあらゆるものが、高いものも低いものも、良いものも悪いものも、きれいなものもきたないものも、すべてのものが俎上に載せられ、試され、そして理解される場である。自然にあるものだけではなく、超自然的なものも。木々や草花だけではなく、巨人や天使や妖怪も。そして人間も。

ビデオの最後でポラスが指をぐっと反らせながら両足を互いに上下させ、グッと左足を引き揚げ、エネルギーのみなぎる足を静かに力強く、スケッチのあいだに開けている通路のような隙間に踏み出し、そして右足を左足に引き付けるとき、わたしたちはポラスとともに彼の記憶をふたたび遡り、コロンビアへの少年時代へと導かれていくのだけれど、そこで、彼の静岡での記憶――「忍」と「浅間神社」の書き取り帳――がふたたたび甦ってくる。わたしがわたしを見い出す物語、わたしがわたしを見い出し直す物語、それが、オマール・ポラスの『虹のドレス』のなかで語られているものであると思う。

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