うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ジャネット・サディク=カーン、セス・ソロモノウ、中島直人 監訳『ストリートファイト――人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』:「都市革命のためのハンドブック」、または既存の都市空間の効率的な人間化

公共領域に著作権は発生しない。(130頁)

 

ジャネット・サディク=カーン、セス・ソロモノウ、中島直人 監訳、石田祐也、関谷進吾、三浦詩乃 訳『ストリートファイト 人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』

都市空間は誰のためのものか。都市交通を、車社会に最適化されたものから、人間に適したものに再デザインすること、ジャネット・サディク=カーンがマイケル・ブルームバーグ市政下でニューヨーク市交通局長として試みたことがそれであり、本書は2007年から2013年にかけての彼女の仕事の回想記であると同時に、都市空間の再編のための提案である。

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しかし、「人間の街路を取り戻す」ことは、都市から車を排除することではないし、人が歩ける空間にすることだけでもない。彼女の試みはずっと広範囲にわたるものであり、道路の再定義から、歩行者のためのテラスの設置、商業空間の活性化、自転車レーンの整備やシェア・サイクルの導入、バスのような公共交通機関の活用まで、多岐にわたる。

それはつまるところ、人間的な都市空間とは、無機的な構図や設計図のなかで完結するものではなく、そこを歩き、活動する人間を含めたものであり、歩行者のみならず、歩行者が訪れる商業施設をも含めた、総合的な活動であるという立場を、サディク=カーンがとっているからにほかならない。

その意味で、彼女の交通局長としての仕事は、『アメリカの大都市の死と再生』(1961)の著者ジェイン・ジェイコブズが唱えた、豊饒な雑多さを内包する、有機的で流動的な交流の場、明確な機能を持たないような街路樹や、不効率であるように見える小路としての都市観に連なるものであることは間違いない。しかし、それと同時に、ジェイコブズの論敵であったロバート・モーゼスのエンジニアリングされた都市空間という路線を引き継ぐものである。

こう言ってもいてもいいだろう。サディク=カーンは、ジェイコブズ的な有機的な活動としての都市を作り出すために、地域住民による下からの自主的な創意工夫(ジェイコブズのアクティヴィズム)に頼るのではなく、モーゼス的な上からのエンジニアリングによって、都市空間そのものをそのような活動のための場に変えたのである。

ある意味、ナッジ理論的なやり方だ。人々の意識を直接変えるのではなく、空間のほうを変えることによって、間接的に人々の行動を誘導し、からめ手で人々の意識を間接的に変えていくというやり方。サディク=カーンが交通局長という行政側の人間であることを思えば、当然の選択でもある。

とはいえ、サディク=カーンが都市の再編のために提唱するのが、モーゼスのようなスクラップ・アンド・ビルド――たとえば19世紀半ばのオスマンによるパリ改造は、街路自体を整備し直す大規模なものだった――ではないことは特筆しておかなければならない。

彼女の方法は、その意味で、ジェイコブズ的なのかもしれない。彼女がやったのは、すでにある街路の使い方を変えることであり、手法としてはゾーニングなのだろう。たとえば道路を塗り分け、駐車スペースを歩行者空間に変えることである。

彼女が成し遂げたことは、ある意味では、さまざまな先例の模倣である。自転車レーンの設置はアムステルダムコペンハーゲンなどの真似だ。しかし、彼女が箴言的に述べるように、「公共領域に著作権は発生しない」(130頁)のであり、重要なのは、人間的な都市空間が円滑に運営され、人々が豊かに活動することができるかであって、そのような空間がオリジナルでユニークであるかではないのだろう。

しかし、そう考えていくと、エビデンスにもとづいて効率的に再編されていく都市空間は、はたして、独自性のようなものを保持しえるのだろうかという疑問もわいてくる。サディク=カーンの手法は、既存の都市空間の効率的な人間化だ(自家撞着的な言い回しではあるが、彼女の交通局長としての仕事を言い表す表現であるようにも思う)。そこで目指されているのは、人間活動のために都市空間を再編することである。目的が同じ以上、最終的に出来上がる都市空間は互いに似てくるのではないか。自転車レーンやバス専用レーンの効率的な作り方に、それほどバリエーションがあるわけではないだろうし、歩行者の安全や商業活動の活性化を念頭に置けば、答えはおのずと弾き出されるだろう。もちろん、既存の都市空間に備わっている余地がちがう以上、彼女が使ったのと同じ手法を導入したからといって、すべての大都市の空間編成がニューヨークと同じになることはないだろう。それぞれの都市がもつ歴史性は破壊されないだろうし、そのようなものを破壊することは、サディク=カーンの目指すところではない。しかし、彼女の方向性は、都市の多様性や独自性を最小化するものではないかという疑問を払拭することもできない。

「日本語版によせて」のなかで、著者たちは、2019年に来日し、東京、大阪、京都、神戸を歩き、感銘を受けたと述べている。たしかに東京も、歩行者天国を作ることで、街路を単なる移動の場以上のもの、人々がそこにとどまり、憩うための空間にするための施策を講じてはいる。自転車レーンの全国的な設置によって、自転車人口は容易に倍になるだろうという彼女たちの予想は正しいとは思うものの、「今ある街路だけで自転車の都市を実現することができる」(4頁)という言葉には、にわかにはうなづきがたいところがある。

本書で語られるのは、基本的に、サクセスストーリーであると言っていいし、高密度でコンパクトな都市こそが人類の未来であり、「効率的に国全体の成長を都市部に集中させることは、今世紀、各国が採用すべき最重要戦略のひとつなのだ」(45頁)という主張は、たしかに環境問題や人口問題などを考えれば、きわめて妥当なものではある。しかし、都市偏重のきらいがあることは否定できない。

それに、本書に登場する都市空間は、総じて、広い道路を持つ都市ではないだろうか。道路が広いからこそ、その幅を狭め、そこに歩行者のための空間や、休憩のためのテラスを設けたり、自転車専用レーンやバス専用レーンを塗り分けたり、横断歩道を短くするために交差点を道路に張り出させたりする余地があった。しかし日本の都市にそのようなのびしろがあるだろうか。

彼女たちが訪れた大都市はそうかもしれない。しかし各県の小都市レベルになるとどうだろうか。郊外や田舎のほうになるとどうだろうか。だからこそサディク=カーンはコンパクトに再編された都市こそが人類の未来であるというような主張をするのだとは思うものの、そのような考え方自体が、都市こそが人間のための空間であるという前提をあまりに絶対化しているようにも感じる。

翻訳はかなりこなれた感じで、ざっと流し読む分には不満を感じない。写真が数多く掲載されており、さまざまな街路のビフォア/アフターを見るだけでも、サディク=カーンの交通局長としての素晴らしい仕事の成果が直感できる。

邦訳副題の「人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い」というのは、本書の回想記的性格を捉えた秀逸なキャッチコピーではあるけれど、原書副題のHandbook for an Urban Revolutionのほうが、本書の使い方を端的に言い表している。「都市革命のためのハンドブック」。