うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

決められない疑似民主制:市民参加の平田オリザの『忠臣蔵2021』

20210606@静岡県舞台芸術公園 野外劇場「有度」
武士のアイデンティティを探す話――平田オリザ作の『忠臣蔵2021』のあらすじを一文で強引にまとめればそうなるだろう。250年以上にわたる太平の時代が始まって1世紀近くが過ぎた頃に勃発した出来事に巻き込まれた赤穂浪士たちを、平田オリザは、惑う存在として描き出す。
浪士たちは、勇壮でもなければ、悲劇的でもない。そのトップに立つ大石内蔵助にしても、民主的なようでいて、どっちつかずの優柔不断。決定できない男だ。右往左往する彼らの妄想的な希望的観測――討ち入りすれば、自分たちの主張も認められるばかりか、士官の道も開けるのではないか―――は、第二次世界大戦の泥沼状態や、現在進行形で悪化するコロナ禍のビジョンのなさを、嫌が応にも想起させる。
平田オリザのテクストは、ときに笑いを交え、ときに皮肉を交えながら、軽やかにステップを踏んでいくが、そこで批判的にクローズアップされるのは、近代日本の民主主義(の失敗)の問題ではないだろうか。家臣たちの意見に真摯に耳を傾ける大石の中立性は、寛容さではなく、無策な曖昧さをただよわせている。
コロナ禍のなか、40人以上の市民俳優を演出プランに有機的に組み込んでいくのは、並大抵の苦労ではなかったはずだ。しかし、演出担当の寺内亜矢子と牧山祐大は、SPAC芸術総監督の宮城聰の新コロナ様式――俳優たちが相対せず、つねに観客の方を向いてセリフを語るという非自然主義的な空間活用――と、ムーバー/スピーカー分業体制、音楽隊とダンスを有効に活用することで、言葉を司るSPAC俳優たちと、パントマイムを受け持つ市民たちを、きわめて巧みに融合させていた。
市民参加はおそらく、県営の演劇団体にとって、必須の要素である。しかしながら、市民はプロの俳優ではない。アマチュアをいかにしてプロフェッショナルな舞台に必然的なかたちで登場させるのかは、答えのない問いだろう。
そのような難題にたいして、寺内と牧山は、市民を、言語的な存在ではなく、身体的な存在とするという解決策を提示していた。こう言ってみてもいい、牧山と寺内は、市民を、個人というよりも集団として提示することで、個々人の演劇技能のバラつきを、マスとしての相乗効果に転換していたのである、と。
集団の力はある。シンメトリーやパターンを表象することは、個人では不可能であり、数があってこそのものだ。SPACの俳優たちが言葉を受け持ち、市民たちが自らの身体を表現媒体とする。それが『忠臣蔵2021』の基本戦略だった。同じシーンが、複数の市民俳優によって繰り返される。それは、同じ所作の機械的な反復ではなく、差異を含んだ変奏であり、そのような多様性の饗宴にこそ、市民参加の意義が正当化されていた。
忠臣蔵2021』で報われていたのは、市民参加者にはとどまらない。舞台裏方の黒子までもが、ここでは、誇らしい登場人物に格上げされていた。過当な要求をすることなく、参加者全員に見せ場を作っていた演出家たちの手腕は見事であったし、演奏者を乗せた移動式櫓を動かす裏方にも見せ場を作っていたのは、心憎い民主的な演出ではあった。俳優のなかで突出していたのは、本劇における空虚な中心ともいうべき大石内蔵助を、舞台後方に設えられた櫓の上で、スピーカーとしては飄々と、ムーバーとしては堂々と、まったく相反するふたつのベクトルをひとりで表出してみせた吉植壮一郎だった。音楽隊のなかでは、基調となる低音のリズムはゆるぎない正確さで、激しい盛り上がりはパッションにあふれる連打で全員をリードした吉見亮が素晴らしいパフォーマンスだった。
しかしながら、ダンスとミュージックをCMのように挿入し、観客をほとんど強制的に高揚させ、最後を祝祭的なマスゲームで締めくくるこのやり方が、平田オリザアイロニー含みの批判性と完全にマッチしていたのかどうかは、疑問もある。平田オリザは、おそらく、なあなあで合議を進めた結果、当事者がみな死に至ってしまったことに、なまなかならぬ疑問を投げかけている。にもかかわらず、演出家たちは、ラストシーンですべての舞台俳優たちに自らの白黒写真の遺影を掲げさせることで、赤穂浪士の無駄死にを、美的に昇華させすぎてしまったようにも思う*1
たしかに、美による贖いは、宮城様式にかなうものではある。しかし、そのような美の特権化がSPAC様式の基調となるべきなのだろうか。その点について、わたしは依然として、大きな疑問を抱いている。 

*1:とはいえ、このラストシーンは、コロナ禍のなかマスクをつけての演技を強いられ、素顔を公開することを許されなかった参加者たちが、観客に向かって自分の存在をアピールできた唯一の瞬間でもあり、県民参加の公演という意味では、これもまた心憎い演出ではあった。