うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20231007@静岡芸術劇場 多田淳之介 演出・台本『伊豆の踊子』

20231007@静岡芸術劇場
多田淳之介 演出・台本『伊豆の踊子

いやこれは、『伊豆の踊子』ではなく、『The Dancing Girl of Izu』と呼んだ方がしっくりくるのではないか。川端康成の原作を裏切っているからでも、英語化されているからでもない。ここでは、わたしたちがなんとなく期待してしまいがちなステレオタイプがことごとくズラされているからだ。しかし、そこに、がっかりさせられる肩透かしはない。現在の伊豆の映像や現代的なポップミュージックをミックスすることで「伊豆の踊子」をアップデートしてアダプテーションした多田淳之介がわたしたちに食らわすのは、痛快な不意打ちである。わたしたちは思ってもみなかったものに遭遇する。しかし、この舞台を体験すれば思わずなるほどと言わされてしまう。不思議な納得感がある。

主人公である学生はいかにもそれらしい格好だ。学帽に袴に黒の外套。肩掛けにしたメッセンジャーバックに下駄。しかし、彼が出会う旅芸人一座は、着物を90年代原宿の美学で再構成したかのような、原色系のグランジ風。メイクも、歌舞伎の隈取をギャルメイクで脱構築したような、エキゾチックな日本風。そのくせ、宿の女将たちや宿泊客たちは、コミカルな昭和風。異なる時代様式が混在しており、純日本的というよりも、エスニックな視点から再創造された、愉しくフェイク的な日本性がここにはある。

臆面もない「観光演劇」ではある。舞台のうえには川端が晩年を過ごした鎌倉の自宅を模したという、軒先のような舞台があり、その壁面は横長の大スクリーンになっている。そこに、伊豆の風景が大写しになる。劇はところどころで突如として中断され、とってつけたような観光案内が差し挟まれる。こうしてわたしたちは、河津町にある七滝(ななだる)についての説明を映像付きで聞かされることになる。あたかも川端の原作に準拠しているかのように、名所案内の観光映像を俳優たちが舞台でライブで演じていく。そしてそれが、まるで不快ではない。まったくあざといにもかかわらず、余計なものが混ざったという感じもしない。あまりにも自然に混入する、ステルスなプロモーション。

それはおそらく、多田の演出が最初から、疑似的なヴァーチャル体験の共有に狙いを定めているからだろう。やや解像度の低い伊豆の山道や林道をバックにしてその場で足踏みする俳優たちの姿は、YouTube的な自撮り映像とも言えるし、1990年代から2000年代初頭にかけて隆盛を極めたノベルゲームのようでもある。舞台がそもそもスクリーンのようでもあり、観客はその視聴者であり、プレイヤーなのだ。

多田のアダプテーションが巧みなのは、作品外的なメタコメンタリーと、作品内の字の文と、作品内の会話文を、それぞれはっきりと異なったかたちで演出することで、パフォーマンスに重層性を作り出していた点。その結果、『伊豆の踊子』それ自体が、旅の一座によるひとつの演目のように見えてくる。字の文をナレーター的な弁士的な解説者が読み上げる。すると、そのような朗読にたいして、SPAC芸術総監督の宮城聰の二人一役の手法をなぞるようにして、学生や踊子が身体的に応える。踊子や学生はセリフを口にすることはない。しかし、ふたりの身体的な距離感、過剰なまでの親密さをただよわせつつも、直接的な接触に至ることはすくない距離感が、散文の手ざわりを具現化する。こうしてわたしたちは、朗読される文体と、視覚化された登場人物の関係性から、川端の抒情性を二重に味わうことができる。

しかしここには、「伊豆の踊子」には収まらない剰余がある。川端が数十年後に記した自己批判的なコメントや、彼が描きこむことがなかった視点——旅芸人たちの視点——がある。だから多田の『伊豆の踊子』は、川端の「伊豆の踊子」を対位法的に補う、立体的なパフォーマンスになっているのである。

おそらくそれがもっとも顕在化するのは、旅芸人の女性陣の存在感であり、パフォーマンス後半部におかれたラップだろう。「旅芸人お断り」というローカルな立て看板にたいして、旅芸人はリリックで応酬する。ノリのいい音楽が、腹に響くほどにビート感の強い問答無用の大音量でディスコのように響き渡り、伊豆の観光映像が流れていたスクリーンに、アグレッシブな言葉が洪水のようにあふれ出す。

だから多田の『伊豆の踊子』は、川端の「伊豆の踊子」とは決定的に異なる。これは主人公たる学生がみずからの孤児根性を克服し、いい人だと言われたことに感動する自己憐憫的な物語以上のものとなる。自己憐憫性は、「幼いことであった」と若かりしころを振り返る川端本人の言葉によって相対化される。そして、川端が描かなかった物語の裏面が、旅芸人たちの悩みや苦しみ、叫びや抗議として前景化される。

ただし、そのようなプロテストがあくまでポップに消費可能なコンテンツとしてパッケージされているところに、多田の演出のとっつきやすさとアンビバレンスがある。旅芸人を見下す社会に抗議する旅芸人のラップは、パフォーマンス内パフォーマンスであるからこそ許された反抗であるようにも見える。男たちに翻弄される女たちを、健気にも、荒んだ感じにも演じ切ることは、問題の所在が社会構造にあるのか、悪辣な男ども個人にあるのかを、曖昧にしてしまう。子どもを亡くした旅芸人の体調不良は、現代に蔓延するネオリベ的な自己責任論からすれば、自業自得のように見えてしまうきらいはある。俳優としての経験を積みながら、旅芸人に身をやつした男にしても、センチメンタルな共感は誘うかもしれないが、そこに社会革命を誘発するような起爆性はない。踊子の諦念——一高の学生との身分違いの恋を自ら諦める態度——にしても同様だ。多田のアダプテーションは、川端の物語を社会性に開いておきながら、そこを共感的な回路に閉鎖してしまう。

そのほうが口当たりのよい観光演劇になるのは確かではある。悲恋のように描かれた学生と踊子が、悲劇のように描かれた旅芸人夫婦が、エピローグ部分で、仲睦まじいカップルとして、新たに子を身ごもった夫婦として、21世紀の現代において自撮りを愉しむ観光客になっているのは、ハッピーエンディングではある。反抗的なリリックを炸裂させていた旅芸人と、男どもに翻弄されていたその友達が、屈託なく観光している。病床に臥せっていた老人も、偏見をあからさまにしていた女将も、クイア的なパフォーマーも、幸福を謳歌している。しかし、それがフェイクにすぎないことに、気づかされないわけにはいかない。わたしたちは「観光客」というカテゴリーに加わることで、この新自由主義的で資本主義的な世界においてそれなりに裕福な消費者になることによってのみ、つかの間の幸福を勝ち取ることができる存在でしかないのではないか、だとしたら、このような「観光客」の回路にそもそも参入することができない人々はどうなるのか。そのように考えないわけにはいかない。

だからこの、伊豆の観光業界のリクエストに可能な限り答えつつ、そこに社会的なプロテストを盛り込んだ多田の演出を、頭ごなしに批判することに、ためらいを覚える。多田がみずからの裁量の範囲において、可能なかぎりポップでありながら、可能なかぎり批判的なパフォーマンスを構築したことは間違いない。しかしながら、その批判性は、いわば、テーマパーク的な牙を抜かれたものであることも、指摘しないわけにはいかない。

しかし、これだけは言っておきたい。多田はエンタメ性を演出するために、やかましいほどの音量でダンスミュージックを流すけれど、それはおそらく、娯楽性のためではなく、ブレヒト的な異化作用のためのものではなかったかという点。この舞台では、1990年代的なものから伝統的なものまで、2010年代20年代的なものまで、さまざまな時代の様式が節操なく召喚されるけれど、それはきっと、ノスタルジーでも未来志向でもなく、いまここで体験しているパフォーマンスと批判的な関係を切り結ぶための意図的に導入された断絶ではなかったかという点。この批判性を見逃す者は、多田の演出の誤解者である。

とはいえ、そこを誤解しても依然として愉しめるパフォーマンスになっているところに、多田淳之介という演出家のプラクティカルな上手さとあざとさがあるのだとは思うけれども。