うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230506 『Woman with Flower』(演出:アン・ウィスク)@毎日江崎ビルを観る。

20230506@毎日江崎ビル 『Woman with Flower』(演出:アン・ウィスク)

演劇祭公式ページではジャンルが「バーティカルダンス」となっており、そういうものがあるのかとググってみると、たしかにある。ふたたび公式ページの紹介によれば、「垂直にそびえるビルの壁をキャンバスに」して、「 重力に囚われない自由な身体が、無限の想像力をかき立てる」パフォーマンスであり、それは「空間の詩」であるとのこと。

30分ほどのパフォーマンスは3部構成。ビルの屋上からぶら下がる4本のロープのひとつひとつに、1人のパフォーマーがぶらさがっている。まずは水平的な動きが基調となる男女のパ・ド・ドゥ。次に垂直的な動きが基調となる2人のコンビネーション。そして、4人全員が菱形を描くようにして一斉に踊るフィナーレ。

ビルの7階ほどの高さで、命綱にすべてを預けて踊るのは、どれほど怖いことなのだろうか。そして、そのような危険な劇をなぜわたしたちは好き好んで観るのか。

しかし、リスクにさらされている他者を安全なところから眺めるという高みの見物型スペクタクルは、長い歴史を持っているともいえる。ローマ帝国における剣闘士にしても、近代におけるサーカスにしても、わたしたちは自分ではかならずしも経験したくないような状況にある他人を見ることで、死のリスクを疑似に体験するとともに、そのような死が首尾よく回避されるところを、両方と愉しんできた。リスクのスペクタクルはけっして異端なものではない。

とはいえここで前面に押し出されているのは、リスクのほうではない。リスクは基調にあるが、そのうえに築かれるのは、壁の上で重力から解放されて、飛び上がっては着地する優雅な姿のほうだ。

各部が10分ほどと小ぶりなのは、パフォーマンスとしての持続性とパフォーマーの生命の安全のトレードオフがこのあたりにくるということだろうか。ここでは、人間の肉体と精神の限界が、パフォーマンスの内容に及ぼす影響力が大きいのではないか。だとすれば、このようなパフォーマンスは、足し算的というよりも引き算的、限られたリソースをいかに効果的に使い切るかという方向性で構成されることになるのかもしれない。

屋上から垂れ下がるロープには、ある程度の可動域があるものの、それはやはり限定的で、角度にして90度ちょっとというところだろうか。時計の針でいえば、4時から8時のあいだを越えないぐらい。だから動きのレパートリーはどうしても限定的にならざるをえない。

それに、これは遠くから観るパフォーマンスであり、近くから観ることができないパフォーマンスである。あまりに細かな動きは、遠目には判別不可能であり、それもまた、パフォーマンスの手数を限定しているところがあるように思う。

そのあたりのことも考えると、10分1セットという設定はきわめて妥当なのだろう。

ずっと上を見上げるようにして眺めていると、パフォーマーのあいだに、音楽とのシンクロ度に齟齬があるように感じられてくる。なるほど、たしかに4人の動きは音楽と連動しているし、ズレてはいない。しかし、宙に浮きながら、決して踏みしめることができない壁を足場としながら、そこで音楽的にステップを踏み、音楽的に身体を舞わせるには、まったくの別の技術体系が必要になってくるだろう。最初は軽業的なところに目が行ってしまい、そのスペクタクル性に驚かされたが、最終的に印象に残ったのは、そのようなスペクタクルな場のなかでダンスをするひとりのパフォーマーの姿だった(頭にバンダナを巻いていた人)。