うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

フェルドマン化されたバタゴフのシューベルト:拡大された細部の向こうの緩やかで穏やかな大きな流れ

アントン・バタゴフは最初の小節を何度か自由なかたちで繰り返す。左手の和音をまずは全音符で2回、それから楽譜通りのリズムで2回。音楽のパルスを定めるかのように。

そして、両手で譜面通りに最初の小節を4回。このとき音楽は前に進まない。波がたゆたうように、アルペジオは無志向的だ。

だが5回目に、右手のB sharpの音がはっきりとしたアクセントをともなって打ち鳴らされたとき、音が動き出すのがわかる。しかし、音楽の基調は、8分音符のアルペジオの軽やかな動きでも、半音階的にうつろう4分音符や2分音符の旋律でもなく、左手の低音の長い音にある。

時間的に遅い音楽というよりも、空間的に広い音楽だ。左手が旋律的に動くときでも、パルスの軸はつねに、最低音の長音にある。実際に奏されているときでも、音としては奏されていないときでも。楽譜には書かれていないベースの音が存在するかのような演奏。細かく動く装飾的な表面の奥深くに、揺るぐことのない規則的な前進がある。シューベルトが、モートン・フェルドマンであるかのように響く。

とはいえ、バタゴフの超低速演奏が完全に成功しているかというと、そうでもない。すべての音を拡大コピーするかのようなこのスピードだと、音の粒のわずかな不揃いさがことさらに耳についてしまう。

もちろん、細かな音ではなく長い音から全体を組み立てるバタゴフのスタイルの場合、アルペジオの微妙なバラつきは致命傷ではない。バタゴフの演奏の面白味は、ミニマルミュージックが要求するメカニック的に完璧な反復ではなく、アナログなやり方でしか実現できないような、手作りならではどのどこか不器用なやりかたで、聞き手の時間=空間感覚を酔わせるところにあるからだ。

細かな変動ではなく、大きな流れに自らをシンクロさせるようにして聞かないと、バタゴフのやろうとしていることはわからないだろう。

とはいえ、このような聴取態度はどこか矛盾したものである。全体像をつかむために、一目ですべてを眺められるように、縮小や省略や抽象を行うほうが普通だろう。しかしバタゴフは、速い音楽でも遅い音楽でもその核心にある緩やかで穏やかな大きな流れを前景化するために、全体を拡大し、細部を拡大する。装飾を取り払って、骨組みを見えるようにするのではなく、解像度の上がった装飾を透かし彫りのようにして、その奥にある骨組みの圧倒的なプレゼンスを感じさせようとしている。

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