うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230507 『Dancing Grandmothers ~グランマを踊る~』(振付・演出:アン・ウンミ)@静岡芸術劇場を観る。

20230507@静岡芸術劇場 『Dancing Grandmothers
~グランマを踊る~』(振付・演出:アン・ウンミ)

舞台の奥の壁に韓国の道を行く車の窓からの眺めが投影されている。特筆すべきものがあるようには見えない。道路沿いにある、ありふれた山や森。構図もアングルも、なにかとくに芸術的という感じはしない。面白くも何ともない車窓からの風景。いつまで続くのかと訝しく思い出したころ、舞台下手から、映像にかぶさるようにして、チョコチョコヒョコヒョコした足取りで、チマチョゴリをアレンジしたような衣装をまとった坊主頭の女性が登場する。

彼女は踊るというよりも舞っているように見えた。重心がないかのような、重力の影響を受けていないかのような、まるで水のなかを泳いでいるかのような動き。足さばきが怖ろしく静かで、体重を感じない。しかし、それでいて、浮いているわけでもない。地表すれすれをなめらかに、しかし、圧倒的な実在感を持って、舞っていく。

彼女のソロが終わると、アップテンポの群舞が始まるが、どちらも、基本となる所作のレパートリーは一貫しているらしい。身体を一杯に伸ばして旋回させるのではなく、どこか不自由そうに、しかし、不自由のなかで愉しそうに、腕を上下に左右にゆする。その振幅の最高潮はとんぼ返り。細かい花柄のワンピースを誰もが着ている。男も女も関係なく、ジェンダーレスに。

けれども、このコンテポラリーーダンス的なパートの真のクライマックスは、床に寝そべり、膝を肘をくっつけるように勢いよく引き付けたかと思うと、その反動で引き離し、さらにその反動で、寝そべった状態から片手を虚空に伸ばし、それに引っ張られるようにして立ち上がるかと思うと、重力の反撃にあったかのように床に引き付けられてしまうところ。

激しいビートのミニマル音楽と、ひたすら痙攣を繰り返す身体が、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の末尾の「生贄の踊り」を思わせるような箇所を観ながら、コンテンポラリーダンスとは新たな身体言語の創出のことなのだろうかという気がしてきた。このように寝そべった身体を痙攣させ、その振動を瞬間的に縦のベクトルに変換して跳び、ふたたび地べたに落下するという動きをわたしたちが実践することは生涯ないだろう。伝統的なバレエやダンスが、つまるところ、特定の所作を様式化することで、反復可能で教授可能で相続可能なテクニックに仕立て上げていく作業だとしたら、コンテンポラリーダンスとは、新たな身体言語の発見=創出であり、それは必然的に、器官なき身体とでも言うべき、わたしたちの日常的な身体を脱臼させるとともに、わたしたちの日常的な身体が勝手に自らに押し付けていた限界を力づくで、しかし同時に、優雅でもあるようなかたちで越えていく行為、しかしながら、越えた先でそのような所作をレパートリー化するのではなく、一回的なもののままあえて消失させることなのかもしれない。

というようなことが頭をよぎっているうちに、舞台はTikTokめいた映像に切り替わっている。しかし、音がない。無音状態のなか、韓国のグランマたちがどこか控えめに、しかし同時に、何とも愉しそうに、腕を上下にゆすり、体を左右にゆする姿が、数十秒ほどの短いシークエンスでかわるがわる映し出されていく。

そこでわたしたちは気づいたはずだ。Dancing Gramdmothers とは、「グランマを踊る」ことであると同時に、「踊るグランマ」であったということに。コンテンポラリーダンスのように見えたものはすべて、グランマたちが愉しそうに身体をゆするときの動きをテーマとするバリエーションであったということに。

だから後半は、本当のグランマたちが舞台の主役となるのであり、前半の舞台を成立させていたプロのダンサーたちは、彼女たちのサポート役になる。いや、サポート役というのは適切ではないかもしれない。前半がほとんどひとつづきの、ビート感の強いミニマルミュージックをバックにした30分以上にわたるコンテンポラリーダンスであったとしたら、後半はずっと短いシークエンスの連続であり、おそらくは、韓国ではよく知られた歌謡曲のようなものが、数十秒程度で交替していく。グランマたちの身体や精神を瞬発的に盛り立てるように、ダンサーたちが大げさに踊って見せる。するとグランマたちはそれをなぞるようにして、反復していくのである。原始共同体的なダンスとは、集団的な身体模写であり、反復による集団陶酔だったのかもしれないと思えてくる。

客席は大いに盛り上がっていた。グランマたちをお姫様抱っこするところではとくに。また、観客席に韓国の音楽をわかる層がいたからなのか、曲に合わせて手拍子が起こる。しかし、それが、まったく自然に感じられてくる。舞台の盛り上がりが、自然なかたちで、観客席にも波及していく。

だからこの公演がミラーボールを吊るすところで終わり、客席を巻き込んだ熱狂のなかに終わるというのは、まったく妥当な終わり方であった。COVID前であれば、観客がステージに突入し、すべてが入り混じって踊るというのがクライマックスだったと演出家は説明していたが、それはまさにそのとおりだと思われた。

彼女たち彼らたちは、グランマの所作をテーマにしつつ、それを圧倒的な身体能力でバリエーションに仕立て上げたけれども、それは彼ら彼女らのダンス能力をひけらかすためではなく、グランマたちの身体にもともと備わっていた踊りの可能性を彼女たちに贈り返すためなのだ。だからこそ、そのように贈り返されたダンスを踊るグランマたちが、それを彼女たちの身体からあふれだす歓びとともに、わたしたち観客にいまふたたび贈り渡すのだろう。

踊ることは贈ることなのかもしれない。ダンスは贈与にたいする返礼であると同時に、贈与そのものなのかもしれない。