うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

歪な均整、乾いた抒情性、諧謔的な透過性:クレンペラーの虚ろな音楽の響き

オットー・クレンペラーほど奇人変人譚にことかかない指揮者も珍しいだろう。歌手と駆け落ちし、オペラ劇場で亭主に殴られる。寝タバコがもとで全身大やけどを負う。罵詈雑言の逸話も多い。躁鬱症だったという。

しかしその一方で、彼の音楽の作り方はきわめて首尾一貫していた。敏捷さを兼ね備えたどっしりとした低音。両翼配置のバイオリンが作り出す空間的な音響の広がり。木管が全体から浮かび上がる淡く乾いた響き。皮肉と諧謔

たしかにテンポはかなり変わっている。若いころはかなり快活で、突進するようなところさえあるけれど、大病を患い、椅子に座って指揮するようになってからは、音楽はひたすら遅くなっていく。

しかし、響きの方向性は変わっていない。水彩画の色のように、薄く澄んでいる。光をまったく通さない厚ぼったい壁でもなければ、光を透かす厚みのないレースでもない。実のある薄さがある。濃いものが薄まってしまったのではないし、厚いものを薄くしたのでもなく、きわめて特殊な薄さの存在感がある。

クレンペラーは新音楽の擁護者であり、マーラーに私淑し――そのくせ、マーラーの音楽すべてを無条件で擁護するわけではなく、厳しい批評眼と独自の審美感を持っている――、ストラヴィンスキーやヴァイルを取り上げた。戦前にすでに新バイロイト様式を先取りするような演出をいちはやく取り入れてもいる。ポーランド出身で、ドイツに学び、アメリカにもわたり、イギリスに居を定める。きわめてコスモポリタンでモダンな人だった。

しかしクレンペラーの指揮は、映像で見るかぎり、技術的にはあまり卓越したものではなかったようである。縦の上下運動が基調で、武骨な印象がある。2メートル近い長身の瘦躯を持て余しているような雰囲気もある。長い腕はきわめて効果的に動くし、キューは的を射ている。しかし動きから音楽があふれてくるようなたぐいの指揮ではないし、バトンテクニックだけで楽団を率いることができる指揮者でもないように見える。

クレンペラーの音楽は、あえて言えば、雑だ。細かいところが微妙にズレている。とくに晩年の演奏は、構えが大きく遅くなるほどに、本来なら聞こえないはずの細部のアラが浮き上がってしまう。オケは何とか合わせようと悪戦苦闘しているようにも聞こえるが、奏者たちがつじつまを合わせようと努力すればするほど、それでも埋まっていない瑕疵が気になってくる。

しかしそれは、クレンペラーからすると、二次的なことなのだろう。彼の遅さは、けっして、繊細さや精密さのためではない。響きの豊饒さのためでもない。遅さは充実や充溢にはつながらない。耽美的な陶酔にふけることもない。むしろ、クレンペラーの響きにもともとあった独特の虚ろさを不気味なまでに表面化させる。しかし、ユーモラスに。

歪な均整。乾いた抒情性。諧謔的な透過性。理性の気まぐれ、または、気まぐれの理性。クレンペラーの演奏は、つねに、知と情が不思議なバランスで釣り合わされている。それが危うくもあり、心地よくもある。しかしこの不安定な安定=安定的な不安定こそ、クレンペラーという人の音楽だったのだろう。

 

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