きわめてアヴァンギャルドな舞台。というか、ポストモダンなキッチュと言いたくなるほどに、反解釈なパフォーマンス。
大澤真幸のプレトークによれば、カフカの「田舎医師」や『城』をコラージュ的にサンプリングしているとのことだが、たしかにきわめてカフカ的。ここでは時間も空間も現実の論理には従わない。すべてが夢の理に従って進んでいくかのよう。
しかしそれは悪夢の法則であり、すべてが精神病院の隠喩となっている(そしてそれはおそらく現代(中国?)社会にたいする痛烈なコメンタリーなのだろう)。誰かの生活世界に、別の誰かが闖入してしまう。わたしのプライベートがなぜかあなたのプライベートといきなりつながってしまう。プライベートな空間すら、侵食を免れない。わたしたちは窃視されているかもしれないという恐れを無意識に刷り込ませながら生きているらしい。
セリフはあるが、このパフォーマンスの持続性と強度を担保するのは俳優たちの身体性と運動性であり、場面転換的に差し挟まれる——というか、それこそが場面であるといいたくなる——群舞である。そこで俳優たちはコンテンポラリーダンサーとなり、互いに引き合いながら、引き離されることを同時に願うかのような、相反する力学を具現化させる。
ウォーホル的なイメージを増幅させたモノクロのインスタレーション(アインシュタインの写真が用いられており、ここでやっとなぜこの劇にアインシュタインの名前が入っているのかが納得できる)が壁一杯に投影されると、俳優たちの身体があたかもバーチャルな映像の一部であるかのように見えてくる。まるですべては仮想の出来事であったかのように。
歌が混入し、ラップが炸裂する。しかしなによりも印象的だったのは、俳優たちの呼吸音。かすれた息の音。それがこのきわめてスタイリッシュな舞台に生々しい動物性を与えていたように思われるから。
それにしても俳優たちのこの圧倒的な運動能力の高さは何なのだろう。いや、それどころか、彼ら彼女らの身体それ自体が、そもそも、天恵的なものではないか。背が高く、手足が長い、美男美女。努力では決して埋め合わせることのできないものを、彼女ら彼らは持ち合わせているように見える。
それらを贅沢に、しかし、スペクタクルのために無駄遣いはせず、「芸術作品」としての商品性を高めつつ、最低限のエンターテイメント性はキープしている。
すべてが思わせぶりである。最後になって、俳優たちが役柄から解放され、衣装を脱ぎ、プライベートのような衣装に着替えて、スーツケースに詰めた荷物をひとつひとつ観客の目の前に晒していくとき、それを目撃するわたしたちに、不思議な動揺が訪れる。それは感動ではない。共感のはずもない(共感できるほどわたしたちはこの舞台をとおして俳優たちのことを知り得ていない)。にもかかわらず、何か伝わってくるものがあった。
そのような奇妙な心の交感を、悪夢のススメとも言うべきこの舞台は可能ならしめてしたように思う。