うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

202304029/30 『ハムレット(どうしても!)』(オリヴィエ・ピイ演出)@有度を観る。

202304029/30 『ハムレット(どうしても!)』(オリヴィエ・ピイ演出)@有度

シェイクスピアの『ハムレット』の上演であると同時に、『ハムレット』についての言説の表象であり、劇場と演劇とは何かという哲学的な問いを提起し、それをパフォーマンスとして探求しようという試み。オリヴィエ・ピイの『ハムレット(どうしても!)』はそのような出来事であったと、とりあえず言ってみていいのではないかと思う。

29日に観たときは、ピイにしてはずいぶん衒学的な舞台だと思った。The time is out of joint の仏訳をめぐる議論は、デリダの『マルクスの亡霊たち』に触発されていることは明らかに思われたし、To be or not to be をめぐる存在論の議論——パスカルからラカンまで、西洋哲学の男たちの箴言の引用――は、いくらなんでも知的遊戯が過ぎるのではないかという気がした。だから、劇後半のオフィーリアやガートルードによる女たちの訴えかけは、ジェンダー的なバランスを取るためのギミックのようにも感じられて、クレバーではあるけれど、綺麗すぎるのではないかと思われた。

30日にもういちど観て感じたのはは、ピイがこの舞台をあくまでパフォーマンスとして成立させようとしているのではないかという点。たしかにテクストだけ見れば、大学の講義として成立するほどの知的密度があるはずだけれど(裏を返せば、ピイはこの作品のために、それほどまでに『ハムレット』が提起する種々の問題に学術的に真正面から取り組んだということでもあるはずだ)、それはあくまで素材でしかない。上演は書かれたものを現前させる行為であり、そのなかでこそ、書かれたものが提起する問題が一回的な出来事として立ち上がってくる。

大量の役者を必要とし、下手をすれば4時間も5時間もかかる『ハムレット』を、『ハムレット』について語られてきたメタコメンタリーも含めて、2時間弱で4人(プラス音楽担当1人)で上演しようというのが、そもそも無理で無茶な試みなのだけれど、『ハムレット(どうしても!)』はそれを奇跡的に成功させている。この劇を観終わって思うのは、『ハムレット』の上演として大きな欠落はなかったという驚きだ。すべてのシーンをやっているわけではないし、有名なモノローグやダイアログだけ拾っているというわけでもないのに、なぜか、『ハムレット』のすべてを余すところなくカバーしていたという感触が残る。

きわめてメタ的な劇。4人の俳優は、それぞれ、ハムレット、クローディアスを始めとする年配者、ホレーシオを始めとする脇役、ガートルードやオフィーリアという女役を担当するが、同時に、コメンテーターでもある。ハムレット役が見せ場となる有名なセリフを口ずさむと、すかさず割って入ってくる。しかしそれが決して不快ではない。混ぜっ返し的な言いがかりがますます愉しくなっていく。

それはひとえに、俳優たちが、シェイクスピアのオリジナルなセリフも、シェイクスピアについて語られてきた言説も、ピイが書き足したテクストも、どれも分け隔てなく、「上演」しているからだろう。彼ら彼女らは、ややもすると衒学的に流れてしまう言葉に、自らの身体性をぴったりと寄り添わせる。だから、黙読したら知的すぎるかもしれない言葉が、真に迫ってくる。表情が、身体が、言葉の意味を増幅させ、音になった言葉が身体や表情と共鳴する。これはまちがいなく、舞台におけるパフォーマンスである。

ピイがここで問いかけようとしたのは、戯曲/劇場とは何か、観客とは何かという、すべての上演に共通する普遍的な問いである。役者たちが冒頭で口にしていたように、「普遍的な答えはないが、普遍的な問いはある」。

劇場は言葉を具現化する空間であり、そこで思考は行為となる。なされないこと、考えられただけのことも、なされたこと、実践に移されたことと同じように、具現化される。舞台は言葉の真正性のための試練の場にほかならない。

というよりも、ピイにとっての演劇とは、つまるところ、言語の持ちうるユートピア的な約束の力のことなのかもしれない。

なるほど、たしかに、現存する戯曲はキャラクターをそこに閉じ込める牢獄のようなものかもしれない。女性を社会空間から閉め出すことが社会的な規範であった時代に書かれた『ハムレット』において、オフィーリアは真実——男の理に圧殺される女の生――を具現化するがゆえに劇からは自殺によって退場させられ、社会の安定のために義弟との再婚を選んだのかもしれないガートルードは不貞な女として糾弾され、最後は無意識的な自殺めいた死を強いられる。

にもかかわらず、ピイは言葉の約束の力を信じているのだと思う。だからこそ、『ハムレット(どうしても!)』の真の主役はホレーシオ役であり、彼の語る言葉こそが、演出家の本心を語っているように思われる。Je t'aime という言葉だけで、近代的なニヒリズムに毒され、自己にたいする疑心暗鬼の虜となったハムレットを救えたはずなのに、そのようなパフォーマティヴな言葉をつぶやくことができなかったホレーシオの深く苦い後悔。

だからこそ、この何重にもメタ的な『ハムレット』が、劇作家シェイクスピアの吐露と解釈できるかもしれない「ソネット18番」の朗誦で閉じられるのは、きわめて理にかなったクロージングであるようにも思う。きみの美しさはかならず衰えるだろう、しかしぼくの詩行のなかでそれは永遠のものとなるはずだ。

そこにこそ、おそらく、言語を中心に、核心に据えた上演による救済の可能性が秘められているはずだ。

蛇足1。29日はオーディオガイドありで観た。『ハムレット』を知らない観客には必須かもしれないが、知っている観客からすると、蛇足だったかもしれない。もちろん、いろいろと役に立つ部分はあったけれど、もしかしたら、字幕部分に表示することもできたのではないかと思った。

蛇足2。29日は最後の30分ほどで雨が降ってきて、観客の集中力がそこで途切れたようにも思う。というか、みな(自分も含めて)そのあたり雨対策を始めたから。そこがちょうどオフィーリアやガートルードの女としての生のパートだったのは、作品としては、あまり幸福とはいえないタイミングだったかもしれない。

蛇足3。2回の公演を観て、微妙な異動があることにも気づいた。たとえば、1回目では、ハイデガーのくだりで、ポテトスープを撒き散らせながら語るシーンは、舞台にスープが飛び散るのもかまわずそのまま続けていたけれど、2回目ではさすがに飛び散りすぎたのか、俳優2人が床を拭っていた。

蛇足4。クローディアスの動揺を誘うための劇中劇部分では、最前列の観客にセリフを言わせる演出だったのけれど、2回目の上演でクローディアス役を担当した人の声がものすごく滑舌がよく、ものすごく通る感じで、そこに驚いた観客は少なくなかったと思う。

蛇足5。これを野外でやる必然性があったのかという気もする。たしかに、もともとはアヴィニョン演劇祭の演目で、そちらでは、野外(無料)公演であるそうだから、野外にしたのかもしれない。たしかに、後半のダークなシーン――オフィーリアとガートルードの絶叫――が夕闇と溶け合っていくのは、演出的にとても効果的だとは思ったけれど、必然的なものだったかと言われると、考えてしまう。予期せぬプラスアルファだったのではないか、と。

蛇足6。「てあとろん」は思っていたよりもずっとずっと充実した展示だった。だからこそ、あれが舞台芸術公園まで行かないと見れないというのは、惜しい気がする。あの簡易版が芸術劇場のロビー(や2階のカフェシンデレラの階段下とか線路側のデッドスペース)にあってもいいのではないか。それほどまでにすばらしい展示になっていたと思う。古今東西の劇場の歴史を、現在のSPACの営為につながるように、系譜学的に描き出しているのだから。