うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230503 『XXLレオタードとアナスイの手鏡』(演出:チョン・インチョル、作 パク・チャンギュ@静岡劇術劇場を観る。

20230503 『XXLレオタードとアナスイの手鏡』(演出:チョン・インチョル、作 パク・チャンギュ@静岡劇術劇場

社会派な題材をシリアスな仕方で、しかし、エンタメ的な完成度を犠牲にすることなく具現化した作品。そんなふうに語ってみたくなる作品だった。

しかし、辛辣な言い方をすれば、これが演劇作品でなければならない必然性はどこにあったのかという気もするところ。なるほど、たしかに、300人近くの命が失われた「セウォル号沈没事故」を受けて、大人である船長の指示を律儀に守ったがゆえに命を落とした多数の学生のための啓蒙劇としては、教育的効果は絶大だろう。この劇を委嘱した地方自治体の意にかなうものでもあるだろう。しかし、それを叶えることが演劇の使命なのかという疑問を抱かざるをえない(とくに、オリヴィエ・ピイの「演劇とは何か」という普遍的な問いを上演する『ハムレット(どうしても!)』を見せられてしまった身としては)。

裏を返せば、そのような深い問いを考えさせてくれるほどに、クオリティの高い劇でもあった。プロット的には、決してエンターテイメント的ではない。離婚した家庭環境のせいでハブられている女子学生と、レオタードを着て自撮りをする男子学生のあいだに育って行く奇妙な友情関係。そこに交錯する友人関係や恋人関係。

しかしながら、ティーンエージャーの悩みに、彼ら彼女らの心理的な葛藤や経済的な現実に、親身に付き合うキャラクターは体育担当の担任しかいない。彼女ら彼らを抑圧する親やその他の先生は、電話における声、それどころか、先生の相槌から推測される存在でしかない。その意味で、この社会派劇は、同時に、きわめて閉じた物語になっている。

けれども、もしかすると、この外部の欠如、状況そのものを主体的に変革するモメントの欠如こそ、韓国の若者が体験している現実にほかならないのであり、『XXLレオタードとアナスイの手鏡』はそのような閉塞感(とそのような閉塞感のなかで、それでもありえるかもしれない、変革の可能性)を上演しようとしていたのかもしれない。

それがはたしてどこまでエンパワーメントにつながるのかどうかは、よくわからない。しかし、これが作品=商品としてクオリティの高いものであったことは、間違いない。

分かりやすいほどの始まり。三方が囲まれた舞台のなか、俳優ひとりひとりが、自らの役柄を紹介する。彼女ら彼らはキャラクターであると同時に、観客でもあり、彼ら彼女らの遍在的な聴衆性は、SNS的な現代の隠喩でもあるのだろう。すべてはつねにすでに誰かに見られており、皆に知られているかもしれないという不安と恐怖。

そのような閉塞感に出口はあるのかどうか。

ありえるとしたら、それは、当事者たちが、誰か他の権威——親や教師、受験制度や世間――ではなく、自分たちひとりひとりの欲望に正直になることによってでしかないだろう。

さまざまな習い事を強いられた姉が唯一愉しんでいたダンスを思い起こすようにして、男子学生は姉のレオタードを身にまとい、自ら買い足す。それはたしかに、現行の社会規範が是認しない行為ではある。しかし、そこを突破していけるかどうかに、現行の若者世代の生きる歓びが賭けられているのではないか。

ただ、そのような抑圧的外部は、この演劇においては、決して顕在化しない。抑圧的権力は暗然たる、潜在的な力に留まるだろう。だからこそ、その社会劇(10代の若者と社会との衝突)は、どこか、青春劇(10代の若者同士の衝突)に過ぎないものであるかのように見えてしまう。

たしかにそれは、難しい塩梅ではある。社会派的なところや社会変革的なメッセージを前面に出しすぎれば、権力側の賛同を得られない。しかし、問題を内面的なもの、心理的なものに還元してしまえば、普遍的な社会正義にたいする訴求力は弱まる。この劇がアプローチしようとする若年層の賛同は得られないだろう。

そのような袋小路を抜け出すための可能性はここでは提示されていなかったかもしれない。しかし、そのような袋小路を提示したことに、美辞麗句だけでは本当の解決にはならないという悲劇的な現実を明るみに出すことに、この上演は多大な貢献をしたのではないだろうか。

 

効果音や音楽部分で字幕を出すのは、テレビや映画の手法だろう。バリアフリーのためとのこと。それはわかるし、重要なことだと思うけれど、こうした配慮が演出的に吸収されておらず、単なる付け足しになってしまっていたのは、ちょっと惜しいような気もする。

舞台装置はどれもちょっとペールなパステルカラー。北欧家具的な感じもするけれど、どこかアメリカンなニュアンスもある。それはつまり、現代のポップカルチャー的にクールなイメージということだろうか。しかし、その一方で、最後に俳優たち全員がポーズを決めるシーンは、CDジャケット写真のような感じもあった。