うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

クラフツマンシップを突き詰める:反スペクタクル的なライナーの指揮

指揮者はかつて、転職してなるものだった。オペラのような劇場付きの指揮者は別として、すくなくとも純粋器楽の指揮者は、キャリアの最初から目指すものではなかった。指揮者は兼業的なものだった。

だからなのか、20世紀の初頭から中頃にかけての指揮者は、自らを魅せること、聴衆に見られることを前提とした指揮をしないし、標準化とは無縁の独特な振り方をする。おそらく指揮行為のスペクタクル性が指揮者の意識に内面化されるには、演奏が映像化される必要があり、それがさらに指揮行為にフィードバックされるには、指揮者としてのキャリアが確立されきるまえに映像化を体験する必要があったのではないだろうか。

トスカニーニやライナーは第一段階を経由したけれど、第二段階に進むには遅すぎたのだろう。第二段階をデフォルトとするのはカラヤンバーンスタインの世代であり、魅せる指揮行為がメソッドとして確立されるのはさらにその次の世代、たとえばクラウディオ・アバドカルロス・クライバーの世代だろう。

しかし、指揮者にとって、自己意識は呪いかもしれない。ライナーは音楽に必要な動きしかしない。隅々まで睨みを利かせ、すべての音を掌握し、エスプレッシーヴォが必要になればまさに適切な量の表情を付けてくるけれど、そうした仕事をするためにしか身体を動かさない。裏を返せば、現代の指揮者が、音楽のためには必ずしも必要のない動きをしてしまっているのかということでもある。

ライナーの指揮はリヒャルト・シュトラウス的だ(実際、シュトラウスに学んでいる)。身振りは小さく、体幹が動かない。ほとんど直立不動のまま、長すぎるほどに長い指揮棒をにぎった右手が、直線を基本とした上下運動を繰り返す(シュトラウスは短すぎるほど短く細い指揮棒を使っていたようなので、ここは真逆だ)。

身体の身振りではなく、顔の表情や目線で意思を疎通しているかのようだ。ライナーの耳のよさは伝説的であり、耳で指揮しているような気配も感じる。省エネ的な身体所作は、もしかすると、オペラという長丁場を連日のように取り仕切らなければならないという現実的要請から生まれた現場的知恵だったのかもしれないが、奏者のあいだにただよう悲壮なまでの緊張感は、ライナーを恐れるがゆえのものかもしれないけれど、同時に、ライナーの所作が小さいからこその集中力がなせる業でもあるはずだ。

ライナーの音楽は、折り目正しく、正確だ。しかし、それでいて硬直はしておらず、快活である。芝居めいたところがなく、外面的効果を狙わない。これは派手にやろうと思えばいくらでも派手にやれるリヒャルト・シュトラウスを、恐ろしく淡々と、しかしまったく過不足なくゴージャスに響かせているところによく聞き取れる。

流麗さはあるが、流れすぎず滑らない。堅実ではあるが、型にはめられて窮屈になっているわけではない。体幹が強く、軸がブレない。土台を広く重く硬くすることで安定感を得ているわけではないので、インパクトや圧力を持ち合わせながら、つねに俊敏で、軽やかで、しなやかだ。

過剰のなさが、すこし物足りなく感じられる部分もあるけれど、ライナーの音楽はクラフツマンシップのひとつの究極的なかたちであるようにも思う。

 

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