うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

歴史的必然としての印象派:ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ

20220122@静岡市美術館

リアリズムの風景画で自己表現をしようというのは、根本において矛盾を抱える営為ではないか。そんなことを考えながら、会期終了間際の「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」を足早に一巡りし、逆走して、もう一巡してみる。

風景画がジャンルとして成立するには、古典的な歴史画や宗教画、神話を題材としする寓意画から自律しなければならなかったのだろう。つまり、風景が背景から主役にならなければならなかったはずである。

戸外での制作が可能になるには、アトリエから持ち出せる油絵具が必要だった。チューブ入りの絵具の発明と流通は、風景画がはじまるためにはどうしてもかかせない技術的条件だったようである。

風景をありのままに描くこと、見たとおりにあるがままに描くことは、理想化したり、意匠化したりすることが慣習的であった時代においては、強烈なアンチテーゼでありえただろう。しかし、現実を忠実に写し取ろうという試みは、不自由を受け入れることでもある。構図を切り取ることはできても、事物の配置自体はいじることはできないからだ。こうして、画家たちは、写実的に表象するに値する風景を求めて出かけて行くことになる。風景画が土地の名前――たとえばバルビゾン――と結びつくこと、風景画が地方で花開くのは、必然的な成り行きである。

風景画家は、自然の風景を描くと同時に、その風景のなかにいる人々や動物の姿をも、リアルに捉える。しかし、そこで描き出されるのは、いわば、不特定多数としての在り方だろう。なるほど、たとえばミレーは、象徴的存在にまで昇華されたかたちで労働者の姿を描き出しはしたが、それは、名前を持った唯一無二の個人としてではなく、「農夫」という一般名詞の個体化ではなかったか。

ここにはアンビヴァレンスがある。自然の風景は唯一無二のものだが、そこに描きこまれる人間や動物は不特定多数のものである。風景画のシンギュラリティは、あくまで、全体の風景に由来するのであって、風景のなかにいる個々の存在に由来するのではないかのように。純粋にリアリズム的な風景画家の独自性は、構図にこそ見出されるべきかもしれない。

風景画家が版画家になること、風景画家が挿絵作家を兼任することは、わかるような気がする。風景画の成立に携帯可能な絵具チューブの発明が必要であったように、風景画の拡大のためにはその複製可能性が必要だったのだろう。風景を忠実に写し取ること、それは、他人の目になることと言っていいかもしれない。出しゃばらない匿名的な客観性こそ、挿絵に求められるものであり、ブルジョワ家庭のインテリアとしての絵画にふさわしいものだろう。

しかし、もし風景画がカメラのレンズのようなものでしかないとしたら、風景画は複製技術の台頭とともに消滅していたはずだ。とくに、現実の忠実な再現という意味では、リアリズム的風景画の上位互換とも言うべき写真の発明とともに。風景画が生き延びたのは、風景を匿名的な客観性――それはある意味で、風景を、永遠の相においてsub specie aeternitatis 、無時間的な相において捉えることだろう――に固定化させるのではなく、画家自身の主観的な認識をとおして、移りゆく時間の相において、一瞬のきらめきやゆらぎとして、風景を表象していくという方向性が模索されたからであり、それが、印象派と呼ばれるようになる潮流である。

とはいえ、展覧会にある絵を丹念に見て行くと、筆の運びをできるかぎり消して風景そのものを浮かび上がらせようとするやり方と、筆致それ自体を表現として昇華させるやり方、風景そのものを非人称的に提示しようとするやり方と、風景を切り取る画家という媒介の存在を前景化するようなやり方が、つまり、客観的なやり方と主観的なやり方が、風景画のはじまりから共存していたのではないかということにも気づかされる。印象派は風景画の歴史における突然変異ではなく、複製技術時代におけるメディアの発展、ユニークな存在としての芸術家像といった文脈を背景にして、必然的に出現してきたものだったのかもしれない。