うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。「米国高校生による日本語スピーチコンテスト全米大会」なるもの。

アメリカ観察記断章。先日うちの大学で「第11回米国高校生による日本語スピーチコンテスト全米大会」なるものがあったので聞きにいった。以下はその覚書。


◯「全米大会」とはなっているが、参加者14人の大半はカリフォルニアからで、次いでアラスカ、テキサス、ニューヨークと続く。テキサスはこのところ日本企業が相次いで進出しているので(たとえばトヨタはカリフォルニアからテキサスに本社を移転させることに決めたという)、何となくわかるが、なぜアラスカ?
◯ どのスピーカーも基本的立ち居振る舞いが丁寧で美しかった。45度から60度くらいの深いお辞儀。事前の打ち合わせがあったのかもしれないと思わせるほど、誰もが奇妙なほど礼儀正しい。
◯ 発音がきわめて正確である。単語単位ではまったく瑕疵がなく、ノンネイティヴとは思えないほど巧みだった。
◯ イントネーションはそこまで正確ではない。
◯ 身振り手振りが抑制されている。というか、英語的なジェスチャーをしながら日本語を話すとまったく演出過剰に映る。言語と身体表現の呼応。
◯ 感情表現についても同様。英語なら効果的ですらあるドラマティックな朗誦は、日本語スピーチでは、あまりに「クサい」。
◯ 英語を話すのに適した声(声量、音高)があるように、日本語に適したそれがあるのではないか。英語に最適な声は日本語に最適とはいえないし、逆もまた然り。もしかすると言語ごとに適した声が存在するのかもしれない。
◯ 英語はアクセントとリズムがはっきりした言葉である。しかしそのノリで日本語を話すと、エッジが効きすぎる。たとえば英語の破裂音(p, b)は日本語の「ば」「ぱ」とは違う。
◯ 英語は抑揚が明瞭であり、アップダウンがはっきりしている。一方、日本語のそれはフラットに近いというか、微妙なニュアンスで成り立っている。日本語を英語的にダイナミックに波打つように口に出すとかなり違和感がある。
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◯ もしかして、日本語には適切なパブリックスピーチのトーンが存在しないのではないか、という思いがわいてくる。口語と文語の分離がまだ発展段階にあった近代においては講談調とか弁士調なる調子があったように思うが、現代においてはそうした特殊な語り口はほとんど消滅してしまったように思うし、残存しているにせよ、それはもはや私たちの言語生活の本質的な一部ではなくなっているように思われる。日本(語)において意義ある議論を立ち上げるにはこのあたりのレジスターにそぐう言語を再創造する必要があるのではなかろうか。
◯ ノンネイティブが自然な日本語を学ぼうとして日本のテレビを見た場合、いろいろな落とし穴があるようだ。NHKのニュースやナレーションは少々フラット過ぎて堅苦しい。民放のそれは抑揚や表現がわざとらしすぎる。バラエティーのナレーションは論外。ではテレビや映画の会話文が参考になるかというと、どうだろう。ああいうイントネーションをシラフで繰り返すのは気恥ずかしいというか、演劇的にすぎてわざとらしい。では日本語の「自然な会話調」なるものはどこにあるだろうか。日本語の「自然な」パブリックスピーチはどこにあるだろうか。
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◯ スピーカーはかなり上手に、ほとんどネイティヴに近い音で日本語を話していたが、節々でノンネイティヴであることが露呈してしまう。それが一番明らかになるのは、もっとも意味のない部分である。「えーと」とか「うーん」とか「そうですね」とか。これが、「あー」ではなく「ah」なのだ。
◯ 沈黙を埋めるための技術。とくに質疑応答のとき。「まあー」とか「そうですね」というような表現が出てこない。逆に言うと、この辺を自然に使いこなせているスピーカーは、たとえ実際の受け答えは拙くとも、わかっているように聞こえる。このあたりの事情は、英語でも同様かもしれない。wellとかyou knowとかlikeとかが自然に口をついて出てくるようになれば、似非の流暢さが手に入るのだろうか。時間を稼ぐテクニックは言語の(見せかけの)習熟度と結び付いているらしい。
◯ これと関連して思うのは、言語と笑い方には相関関係があるのか、ということだ。日本語の笑い方は英語の笑い方と明らかに異なっているし、逆もまたしかり。もちろんこれは文化的な問題だろうが、もしかするとこれはそれ以上に言語的な問題ではないだろうか。「haha」と「ハハ」は音だけでみればかなり近いけれど、何かが明らかに違う。
◯ 語尾のバリエーションが乏しいのは仕方ないのかもしれないが(ーだ、ーだ、ーだ)、非ネイティブさがあからさまになるのは、文中の句点のカジュアルさ/フォーマルさをうまくコントロールできていないときだ。たとえば、比較的くだけた口調なのに、「ーだが」とか「ーが」を使ってしまったり、文語に近いフォーマルな調子なのに「ですけど」というような口語調になってしまう。
◯ 外国語を話すというのは緊張を強いる行為であり、そのなかで、投げやりな感じやいい加減さを表現するのは難しい。しかし、質疑応答で必要になるのは、まさにそうした、興味のあるなしを言外に匂わせるニュアンスの技術ではないか。「どうも」「ありがとうございます」「ええ、そうです」をクリアに、しかしやる気のない感じにもごもごと言うのは並大抵の修練では身につくものではない。
◯ 面白いことに、スピーカーたちは「無意味な」表現をほとんど使わなかった。「なんか」「ーな感じ」「とか」「みたいな」とか。もちろん彼女ら彼らは書き言葉でかかれた原稿を暗記しているのだから、そういう表現を使わないのは当然だけれど、質疑応答ですら誰も使わなかったのは面白い。しかしこういう意味のない表現こそ、言語習熟度の指標なのかもしれない。英語でいえば間違いなくlikeであろう。
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◯ 日本語の話し言葉は、メタコメントを差し挟むことが難しいのではないか。英語なら、you knowとか、wait a momentのようなフレーズは実際のスピーチは別の階層に属しているように思われるが、これを日本語にすると、そうした階層の違いからくる区切れのよさが消えてしまう。現代日本語におけるパブリックスピーチを論理的にするための戦略を考える上で、この点は無視できないだろう。