うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

教えて欲しかった英語。返答。

教えて欲しかった英語。返答。あいづちに近いが、あいづちが受け流すための句点でしかないとすると、返答は読点以上句点未満、流れを一旦受け止めて投げ返すためのものだ。It's cool! That's awesome! 頭で分かっていようと本能的に返せない。どうすばいいのか? 先日、ロサンゼルス支部フルブライトプログラムで東ヨーロッパから来ている人々に会ったが、彼女ら彼らは例外なく英語が達者だ。ただ話せるというだけではなく、英語の呼吸を知っている。日本人はたぶん、英語は知っていても英語の呼吸がぜんぜんわかっていない。少なくとも私はそうだった。もちろん、日本人全員が英語の呼吸を身に着ける必要はなかろう。しかし、偏差値65を越える辺りの大学を行った日本人にはそういうもの実感として習得させるプログラムが必要のはずだ。さて、問題は、もちろん、そういうものが可能なのか、という点だ。

日本ほど、英語を学ぶことが「余技」というか「嗜好品」になっているところはほかにあるだろうか。英語を学校で強制的に学ばされる一方で、それがカルチャースクールの人気科目となりえる。言葉が生存の技術ではなくお洒落の道具になる。いや、英語がお洒落アイテムになることそれ自体はそれでいい(そのおかげで英語を学ぶことにマイナス・イメージがないから)。しかし、教育と商売のあいだにおかしな隙間ができてしまっている現状は大いに問題だろう。本来なら偏差値の高い大学で4年教育を受けた人(ましてや大学院に4年もいた人)は苦もなく英語が話せなければならないのに、そうはなっていない。少なくとも(不幸にも)「優等生的に」、「くそまじめに」、「受験英語的に」大学でも英語を学んでしまった私の場合は。大学という場が英語を使えるようするための機会を(無償で=正当な学費内で)提供すべきなのに、結局ひとびとが英語を身に着けようとすると、割に合わないほど高い金を払って「駅前留学」をする羽目になる。