うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。わからないのにわかったふりする。

特任講師観察記断章。「なぜわからないのにわかったふりをしているのか、しかも「誰もわからないと言わないから」という理由で。そんなつまらないことはやめましょう。そんなことのために大学に来ているわけではないでしょう。50万近い学費をドブに捨てるような真似をなぜするのか。その金はどこから来ているのか。もちろん自分ですべて払っている人もいるかもしれませんが、そのいくらかは親の金ではないか。いや、自分の金だから適当でいいというのでもないでしょう。50万は大金です。それがバイト代から捻出したものであればなおさらでしょう。ならばなぜそこから最大のリターンを得ようとしないのか。別にわからないことをどうこう言っているのではありません。わからないことを責めているわけではない。わからないのは全くかまいません。というより、もしいま授業でやっていることがすべてわかるのであれば、もう学校などいますぐ辞めて、起業するなり海外の大学院に行くなりしたほうがいい。わからないから学ぶのでしょう。それなのに、わからないのをごまかしながら大学4年間を終えるつもりですか? 英語はやりたくないというのもかまいません。「これからは中国語だ、英語はもういい」というのもいいでしょう。英語ではなく経営戦略やプログラミングを、というのもいいでしょう。何かやりたいことがある、そのために何かを切り捨てたい、と決められるのはとても素晴らしいことです。しかし、ただぼんやりと席に座って、おそるおそる周りを窺いながら、わからないのにわかったふりをするなんて、そんなつまらないことはやめましょう」というような説教というか叱責というか何とも名づけがたい言葉の奔流を今日の授業で氾濫させるつもりなど言い出す瞬間までまったくこれぽっちも抱いていなかったはずなのだけれど、こんなセリフが5分くらいノンストップで言いよどみもなしにスラスラ自分の口からタレ流されたからには、きっと心のどこかでずっとこんなことを言ってやろうといろいろ練りまわし捏ねくりまわしていたのかもしれない。

怒りではなかった。やる気のない生徒の返答によって引き起こされた単なる脊髄反射でもなかった。失望と侮蔑と激励がごちゃまぜになった奇妙な混合物だろう。こんなことを皮肉まじりの冷たく抑揚のない声で淡々と語り続けると学生の顔はまるで暴風雨から身をひそめるかのように縮こまってうつむくのだが、今日は途中で「いまはとても重要な話をしている、顔を上げて」と言うことさえしてしまった。

こんなふうに今年最後の授業のひとつを終えるつもりではなかった。言ったことが間違っていたとは思わない。誰かがどこかで言わなければならないことをたまたま自分が言う巡り合わせになったのだというふうに思う。しかし、もっとうまく言えた、もっとうまい言い方があったのではなかった、とも思う。

マイナスを帯びた言葉に投げつけるのは精神的に堪える。マイナスの言葉が自分にも反響してしまうからかもしれないし、他者を傷つける言葉(たとえそれが真実のものであり、他者を思ってのものだとしても)を発することを本能的に忌避する身体の拒絶反応に無理に逆らって言葉を絞り出すからかもしれない。どうすればマイナスの言葉をポジティヴに伝えられるか、どうすれば批判的な言葉を元気を与えるようなものに変容できるか。2019年の教育課題のひとつだ。