小島信夫の『アメリカン・スクール』はいつ読んでみても何かとても切ない気分になる
彼はこのような美しい声の流れである話というものを、なぜおそれ、忌みきらってきたのかと思った。しかしこう思うとたんに、彼の中でささやくものがった。
(日本人が外人みたいに英語を話すなんて、バカな。外人みたいに話せば外人になってしまう。そんな恥ずかしいことが……)
そのとおりだ。しかしアメリカ人相手に英作文を教えなければいけない身としては、「外人みたいに話す」すべを身につける必要性を切実に感じずにはいられない。
(完全な外人の調子で話すのは恥だ。不完全な調子で話すのも恥だ)自分が不完全な調子で話をさせられる立場になったら……
彼はグッド・モーニング、エブリボディと生徒に向って思いきって二、三回は授業の初めに云ったことはあった。血がすーとのぼってそのときほんとに彼は谷底におちて行くような気がしたのだ。
幸いながら、「谷底におちて行く」気分はない。しかし、日本で日本人相手に「グッドモーニング、エブリボディ」とやらなければいけない状況にあったら、「血がすーとのぼって」いくかもしれない。
(おれが別のにんげんになってしまう。おれはそれだけはいやだ!)
たしかに英語を話す時には何かもう自分でなくなる。そして外国語で話した喜びと昂奮が支配してしまう。
その通り。ここには矛盾めいた感想がある。英語で話せることの快楽、そうした快楽を感じることのいかがわしさ。4年もアメリカにいてそこそこ英語は話せるようになったものの、英語で話すことを純粋に楽しんでいるのかと問われると、忌憚なき返答はできかねる。正直な話、自分でもよくわからない。