うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

本源的な自発性への賭け:栗原康『アナキズム:一丸となってバラバラに生きろ』(岩波新書、2018)

ここにあるのは本源的な自発性への賭けだ。いまのこの社会には抑圧がある。社会的なもの、制度的なもの、家庭的なもの、文化的なもの、歴史的なもの、経済的なもの、権力的なもの。原因はさまざまだが、何かしらのかたちでタガがはめられている。それを解き放つことはできないか、これこそ、栗原の最深にある主張であり、確信であり、信念である。

 

あばれる力の得体のしれないハイな気分 

この蠢くエネルギーはきわめて身体的だ。彼の議論は主観的で独我論的ではあるが、即物的で肉体的でもある。エネルギーはまさに体の奥底から湧き上がってくるものであり、動物的と言っていいものなのかもしれない。快楽――ハイな気分――と結びつくものだ。 

でも、そうやって、自分の「根拠」すらブチぬいたとき、ひとってのはかならず得体のしれない力をその身にやどす。それこそ五時間でも六時間でも、なんだこの力は、なんだこの力は、って、身体がかってにうごくんだ。もう夢中になって、時間なんかわすれちまって、子どもみたいにはしゃいでしまう。自分の限界なんかとうにこえて、ひとでありながらひとじゃないうごきをはじめていくんだ。ひととして、ちょっとおかしいことをやりはじめたりね。やめられない、とまらない。うれしい、たのしい、きもちい。制御できない力がある。手に負えない。そういう力に酔いしれる。そういう力があるってことを誇りにおもう。やることなすこと根拠なし、はじまりのない生をいきていきたい。(21)

この引用にはいくつかのモチーフが現れている。子どものようであること、ひとあらざるものであること、「正常」「普通」でなくなること。それはつまり、「ちょっとおかしいこと」の領域だ。そして、自発性の力はつねに暴走と関係づけられている。いや、この言い方だと正確ではない。栗原の考えによれば、自発性の力そのものが暴走であり、「制御できない」のだ。規律や陶冶のような要素は完全に退けられる。自己コントロールすら抑圧だとでもいうかのように。

 

依然として「わたし」と書くことは可能か?

しかし、こうなってくると、わたしたちはもはや制御できない力の奴隷ではないのか。身体という自動機械になってしまうのではないか。なるほど、それは社会だとか何だとかの諸抑圧力「からの」自由ではあるが、意識は身体に従属することになるのではないか。またはこう考えるべきか。シュティルナーは「わたし」を所有することによって意識を意識という言葉――ヘーゲル的な響きだ――を使わずに領有しようとしたと言っていいし、その意味では意識=意志による物体=肉体の包含であった。シュティルナーはどれほどアンチ的であれ、ドイツ観念論の末裔であった(そしてそれはマルクスたちについても同様だろう、どれほど唯物的なものが重視されようと、そこで意識Bewusstseinが議論の俎上から完全に消え去ることはない)。しかしながら、栗原においてはまさにその「意識」が問題にはなっていないかのように聞こえる。では、ここで「おいら」と書きつける主体は誰/何なのか?

 

爆発の後の不在、または永久に爆発し続けるのか

栗原には破滅願望がある、と言ってしまうのは語弊がありすぎる。破滅的なもの、偶発的なものを許さないのがいまの社会なのだ、と言うべきだ。とはいえ、栗原が制御ではなく暴走を優先させるとき、最終的に出現するのは調和ではなく過剰であり、過剰による爆発である。「人生は爆弾である」というテーゼに行きついてしまう。

ハラハラ、ドキドキ。それがアナーキーを生きるってことだ、生きるよろこびをあじわうってことだ。プルードンが「いつでもあなたがされたいとおもった善いことを他人にするのです」っていっていたのも、そういうことだとおもう。自発性を暴走させろ。自分にたいしても、他人にたいしても、おせっかいしまくってやれ。おせっかいしかしたくないね。人間のもっともたいせ(118)つな自由は、自分の自由すらぶちこわすことができる自由である。絶対自由を手にしたい。爆破につぐ爆破、そして、さらなる爆破をまきおこせ。「生の拡充」とはなにか? パンパーーンッ!!!(119)

バクーニン的な「破壊的創造」の延長線にある。だが、バクーニンがそれでも破壊の後の創造を夢見ていたとしたら――バクーニン的プランに寄り添うワーグナーの『神々の黄昏』の終結部では、憎しみの連鎖がライン川の奔流に呑み込まれ、神々の城が燃え落ち、神々なき人間の世界の始まりが予兆される――ここにはそうした「後」の世界がまったく夢見られていない。まるで祭りの終わりを恐れるような心境だ。祭りが永久に続くことを願うようなものだ。栗原のビジョンは、はじけてくだけちる以外の終わり方を知らない。

これは無責任だとかいうのとはまた別の問題をはらんでいる。終わりなき生成変化を生きることは果たして可能なのか、という理論的でもあれば実存的でもあり、工学的でもあれば生物的でもあるような問題だ。

ユートピアのような最終目的が隠し持つ暴力性はいまさら言うまでもあるまい。目的が手段を正当化するという物言いがどれほどの犯罪行為や反人道的行為といった災厄を招いてきたことか。

だが、自分の限界を常に超えていく自由とは、それ自体としては(少なくとも原理的には)無方向的であり、だからこそ「なんでもあり」になってしまう危険を秘めている。そして何でもありの場においては、現行秩序における強者(体力的なものであれ、知力的なものであれ、金銭的な力であり、政治的な権力であれ)が必然的に有利に事を運ぶだろう。その危険性にたいして、栗原はあまりにも無邪気であるように見える。

 

あばれる力の革命性 

ただし、「あばれる力」に解放の可能性がふんだんに眠っていることは特筆しておかなければならない。現代社会の奇妙なパラドクスは、われわれにはいつでもどこでも叛乱して暴動を起こす力があるにもかかわらず、あたかもそうした力など持たないかのように振る舞っている点である。そうした力などそもそも存在しないという前提が真実であるかのようになっているところである。ボエシの『自発的服従論』がすでにそうした議論を先取りしていた。わたしたちは自発的健忘症を生きているのだ。あばれる力を取り戻すことは、自分を取り戻すことでもある。そしてそれこそまさに、権力側の人間が恐れることである。 

そうじゃなくて、ほんとうにこわいのは、こいつらなんにもできないっておもわれていた連中が、とつぜんあばれはじめることなんだ。(168)

あばれることによって暴露されること、それは、支配というものが、本質的には、支配者の力ではなく、被支配者の無力によって成立している、というパラドクスだ(これはグラムシがどこかで論じていたことでもある)。そしてこのパラドクスのねじれを解消するところにこそ、解放の糸口があるというのも真実だろう。「弱者がその弱さにひらきなおって、それを武器にしてたたかえってことだ」(169)。

めちゃくちゃにする力は必要だ。リセットするための契機は必要だ。しかし、そうしたからといってその次にくるものが前にあったものよりマシなものになるかどうかの保証はない。だから試すべきではない、という結論を引き出す気はないが、そこまで爆発に賭けたい気にもならない。

 

あばれたあとにのこるもの 

壊したあとには弱肉強食的な世界が訪れるのではないかと恐れるのは、ホッブズ的な罠にはまっているだけなのだろうか。破滅的な出来事のあとに奇跡的なユートピア的共同体が現れる可能性がないわけではないし、そうしたものが実際に出現してきたことは歴史が証明している。

しかし、今現在の世界がホッブズマキャヴェリ的なものをはらんでいるとしたら、その暴力性を解除することなしに世界を爆破してしまえば、そこから弾け出すのはまさにホッブズ的な悪夢ではないか。必ずしもそうなるとはかぎらないだろう。だが、そうならないともかぎらない。それに賭けるべきなのか。

この意味で、栗原がグレーバーの『負債論』にたいして不満を述べるくだりが興味深い。栗原に言わせれば、コミュニズムと交換とヒエラルキーのなかで堂々巡りをしてしまうグレーバーは「ちょっとものたりない」(230)。それはおそらく、フランス人類学(モース)や構造主義レヴィ=ストロース)の伝統を引き継ぐグレーバーが、社会の恒常性――それはニュートラルな意味での秩序と言ってもいいし、型のようなものと言ってもいいだろう――をつねに念頭に置いて仕事をしているからだろう。恒常的なものと可変的なものの関係性をつねに視野に入れながら対象を記述し、思考を立ち上げているからだろう。

しかしこの恒常的なもののほうが、栗原にしてみれば、余計なのだ。だから彼はフランス人類学のなかでも、モースでもレヴィ=ストロースでもなく、ピエール・クラストルにヒントを求める。クラストルもまたレヴィ=ストロース以降の世代であり、『国家に抗する社会』の大筋は、いかにして部族社会が国家的なものを呼びこまないための自己防衛システムを備えているのかという議論ではある。

だがクラストルにはシステムからこぼれておちていくものにたいする細やかなセンスがあったし、だからこそあの本のなかには狩人の歌という一風変わった章が差し挟まれていたわけだが、栗原はまさにそこに着目する。

栗原のシナリオは一貫している。作る力、まとまる力、維持していく力ではなく、あばれる力、はずれていく力、ときはなたれる力が優位に置かれる。 

メロディだ、あきらかにだれにもきこえちゃいないメロデイが狩人たちにはきこえている。めっちゃ孤独だ。でも、この孤独な歌のなかに、支配がなくなったはずのこの社会の支配から離脱していこうという意志をかんじる。おいら、そうやってなにがなんだかわかんないけど、もがき苦しみながら暴走していく、そういう狩人たちの孤独な歌のなかに真のコミュニズムがひそんでいるんじゃないかとおもっている。暴走、暴走、暴走だ、そしてさらなる暴走だ。コミュニズムとは、コミュニズムを離脱してこそコミュニズムである。コミュニズムを暴走させろ。いくぜ、アナーキー!(237)

 

あばれるひとはなんにんいる 

だが、そこで暴走するのはつねに少数者の営為ではないのか。というよりも、孤独な狩人自体がすでに孤立した存在であり、そこに共同的なものを見るというのは矛盾してはいないか。

この狩人は誰と連帯している? 栗原と、としか言いようがないではないか。なるほど、たしかに現代において、ある社会の少数者がべつの社会の少数者と連帯することは可能であるが、少数者に少数者が加わろうと、それは依然として少数者のままである。数の論理で言えばそうならざるをえない。 

さらに突っ込んでいえば、栗原のこのシナリオに沿っていくと、暴走する身体はべつの暴走する身体とどういう関係を切り結ぶことになるのだろうか。反秩序(いまある秩序に反対する)というのわかる。反秩序を秩序化(革命勢力の暴君化)させるべきではないというのもわかる。しかし、秩序的なものをつねに絶対的な拒絶することは、定かならざるものに身をさらし続けろということでもある。 

いちどたりとも均衡のとれたことのない合成された力。ひとつになっても、ひとつになれないよ。なんどやってもひとりはひとり。アナキズムとは、絶対的孤独のなかに無限の可能性をみいだすということだ、無数の友をみいだすということだ、まだみぬ自分をみいだすということだ。コミュニズム。自分のために、自分のために生きてさえいれば、なんにでも、またなんにでもなれるよ。ほんのつかのまのことかもしれない、でもほんのつかのまでも、その一瞬に自分の人生を賭けることができたら、けっしてわすれることはないだろう。この酔い心地だけは。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きていきたい。一丸となってバラバラに生きろ。(260)

それはどうしても分裂的な試みにしかならないだろう。その苦しさは栗原の文体においてもっとも明示的なかたちで表象されている。

独我論的なつぶやき(「なんどやってもひとりはひとり」)から、規定的断定(「ということだ」)へ、自分を納得させるような他者に同意を求めるような語りから(「なれるよ」)、抒情的なクライマックスへと向かい(「ないだろう」)、スローガン的な叫び(「まきちらせ」)、自己の願望(「いきたい」)、他者への強い勧誘(「生きろ」)に収斂していく。

一と多、まとまりとバラバラ、そうした対立項を直接的かつ即時的に、融合させることなく相乗効果に導こうという栗原のメッセージは、論理的な飛躍を抱えているからこそ、「おいら」というひとつの視点から語り続けることはできない。これは自分と想定読者とのあいだを揺れ動くことによってのみ響かせることが可能になるような音楽なのだ。だがそれは、つまるところ、拡張された独我論でしかないように思われる。

 

たくさんのひとり 

ここにはたくさんの「ひとり」がいるが、「ひとり」以外のまとまりを思い描くことができないのだ。もしそうしたものがありえるとしても、それは、恒常的な共同体ではなく、あくまで一時的なものにとどまるしかない。「酔い心地」という表現がそれを如実に語ってしまっている。 

得体のしれない力がやどる。何時間でも何時間でもうたってしまえ。あれもできる、これもできる、なんでもできる、もっともっと。人間はひとりにして群れである。統一された組織じゃない。おいらも犬も留学生もてんでバラバラ、孤独である。でもその力がスッとかさなったとき、それが得体のしれない力にかわる、化けるんだ。(260)

そうかもしれない。しかし、力が重なったとき、本当に化けるだろうか。化けるかもしれないし、化けないかもしれない。栗原は化けるほうに賭ける。しかしそれは、絶望的なわたしが賭けた希望のことばでしかないように思われる。

 

暴走の一般理論

アナーキーな力の暴走を一般化することは可能なのか。何の下準備もなしにいまの世界のなかで暴走を普遍化させたときに出てくるものに賭けるべきなのか。 

クロポトキンはそこに賭けるのは危険だと思っていたからこそ、マテリアルな革命の前に精神的な革命の下準備をする必要があると考えたのだろう。クロポトキンの地理教育論も、相互扶助論も、未完に終わった倫理学の著作も、そうした文脈において捉えるべきであるし、そうでなければなぜ革命後のロシアに帰還したクロポトキンが「アナキズム的」倫理ではなく倫理「そのもの」の体系化を完遂させようとしたのかが見えてこない。

おそらく栗原に欠けているのは、アナキズムをも越えて出ていこうとする意思ではないか。なるほど、栗原はコミュニズムを壊していこうとはする。しかし、アナキズムについてはどうなのか。栗原のアナキズムの定義/理解がオーソドックスであるかどうかはともかく、彼はアナキズムの「内部」にとどまることを選んでしまっている。